2012 年 6 月 のアーカイブ

厚焼玉子 12年6月30日放送



梅雨の食卓 1 滝川豆腐

じめっとした日には
口当たり良くさっぱりとしたものが食べたい。

冷蔵庫もない、エアコンもない時代に考案された滝川豆腐には
そんな願いがこもっているように思う。

滝川豆腐は
裏ごしした豆腐と寒天を混ぜ合わせて冷やし固め、
ところ天突きで突き出したもので
かけ汁に青柚子の香りを添えるなどして
さわやかな味を工夫する。

寒天のチカラを借りて麺のように細長く伸びた豆腐は
滝のように、流れる水のように涼しげだ。

滝川豆腐は18世紀の豆腐料理の本「豆腐百珍」にも載っている。
著者の曽谷学川(そだにがくせん)は京都の人で
そういえば今ごろの京都はカジカが鳴き、蛍が飛んで蒸し暑い。


kana
梅雨の食卓 2 梅干

梅雨に入ると梅の実が熟す。
梅には殺菌力がある。
梅雨どきの、食べ物が腐りやすい時期に梅が実るのは
なんとありがたいことだろう。

梅は中国が原産で
古代では食べ物というよりも薬として用いられていた。
日本でも平安時代になると
村上天皇が梅干しと昆布のお茶で疫病を治したという伝説がある。
梅干しはもうこの時代からつくられていたようだが、
でもそれは貴族限定の薬であり健康食であり贅沢品でもあった。

梅干がやっと庶民の口に入るようになったのは江戸時代。
人々が平和に旅をするようになると
天皇の病気さえ治した梅干しの殺菌力は
弁当になくてはならないものになった。

梅雨に熟した梅の実で
今年も日本各地で梅干しがつくられる。


Craig Grobler
梅雨の食卓 3 カツオ

初ガツオをじっと我慢して
6月7月に至ると
カツオはぐんと脂が乗っておいしくなる。
値段も庶民の財布にやさしい。

ところで、カツオのたたきのはじまりは
土佐の殿さま山内一豊公が
生のカツオでお腹をこわしたから、だとか
いや、お腹をこわしたのは領民だ、
それを殿さまが心配して生で食べることを禁じたのだ、とか
さまざまな説がある。

表面を炙って焼き目をつけ、ニンニクや生姜、紫蘇などの
殺菌力のある薬味とともに食べる「たたき」は
この時期のカツオの食べかたとして
たいへん合理的で知恵のある方法だ。

ひんやりと冷たいカツオのたたきを口に運ぶとき
ああ、夏が来ると思う。


星玉
梅雨の食卓 4 鮎

早いところでは5月だが、
鮎の解禁はおおむね6月だ。

鮎は水が豊かに流れる川底の苔を食べる。
その緑の苔が、果物のような野菜のような
あの清々しい鮎の香りになる。

さて、明治のころ
東京帝国大学の教授、石川千代松博士は
琵琶湖に生息するコアユという魚を違った餌で育てれば
立派な鮎になるのではないかと考えた。

その当時
川の鮎と琵琶湖のコアユは違う種類と思われており
博士の論文は誰にも相手にされなかった。
しかし博士は、研究をつづけ、実験を重ね
川に放流したコアユが大きな鮎に成長することを突き止めたのだった。

いま、日本の川は堰やダムができ
鮎が川の上流までさかのぼることが困難になっている。
しかし、それでも鮎は我々の食卓にある。

梅雨空を一刀両断するような銀色の鮎
その恩人に感謝したい。


OpenCage
梅雨の食卓 5 ジュンサイ

与謝蕪村がジュンサイの収穫を詠んだ俳句がある。

ぬなわ取る 小舟に 歌は なかりけり 

この「ぬなわ」がジュンサイのことで
池に小さな舟を浮かべるジュンサイの収穫は
京都北山の初夏の風物詩だった。

ジュンサイは酢の物にしたり汁に入れたりして食べる。
つるんと喉を滑っていく心地よさが何ともいえない。

梅雨どきの蒸し暑さを吹き飛ばすには
ジュンサイのわさび醤油がいい。
器もジュンサイも醤油もつめたく冷やしておく。
ただそれだけのことだが
夏場に氷のなかった蕪村先生の時代には
こんな切れ味のいい食べかたは誰も知らなかっただろう。


マメ犬
梅雨の食卓 6 山椒を摘む人

タケノコの時期には山椒の若葉があった。
それから花山椒になって
いまは実山椒の時期だ。

山椒の実は
塩で漬けたり醤油漬けにしておくと
食卓がいつもいい香りになる。

山で山椒を積む人のことを思う。
小さな粒を摘み取るその指先から
緑の香りがたちのぼっている。


OpenCage
梅雨の食卓 7 梅の仕事

梅雨は梅にはじまり梅に終わる。

晴れ間をみては実をもいで
塩で漬けこみ、梅干しにする。
砂糖で煮て煮梅にする。
すりおろして黒くなるまで煮詰めると
梅干しエキスになる。

熟した梅を茹でて裏濾ししてつくる梅ジャムは
程よい酸味のさわやかさで
これからの暑さに立ち向かう食欲を増進してくれる。
焼酎と氷砂糖があれば梅酒が漬かる。

落ちて痛んだ梅を茹でた汁で布巾を煮ておけば
漆器や家具の艶出しに使える。

梅を使った仕事の多さ
そしてその仕事に取り組むときの忙しさ。
カラリと晴れた日に台所にこもるよりは
いっそ雨が降ってくれた方が
仕事に精出すことができるのかもしれない。
だから梅の実は梅雨どきに実って熟すのかもしれない。

正岡子規にこんな俳句がある

  青梅に 塩売を呼ぶ 戸口かな

さあ、梅と塩が揃った。梅干しを漬けよう。

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三島邦彦 12年6月24日放送


afagen
美空ひばりという存在

美空ひばりが亡くなった時、
多くの人々が、ひばりのことを天才だったと語った。

指揮者の岩城宏之は言う。

音楽史上唯一の『天才』は、
モーツァルトだけというのが、常識である。
しかしぼくはこの言葉を、ためらいなく
美空ひばりさんにも使いたい。

天才は空に昇った。
しかし、日本のどこかで
今日も彼女の歌は響いている。

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三國菜恵 12年6月24日放送



美空ひばりと舞台衣装

昭和21年9月。
横浜にある「アテネ劇場」というちいさな舞台に
美空ひばりは立った。

そこでの公演は、ある意味で歴史的な舞台だったという。

ステージの1曲目 『旅姿三人男』という曲で
ひばりは三度笠をかぶって登場。
そして、パッ!と笠を取ると同時に、
パッ!とスポットライトが彼女を照らしだした。

この演出を考えたのは、ひばりの母、加藤喜美枝。

実は、当時
「歌手が扮装して歌をうたう」ということは前例がなかった。

親子二人三脚で「お客さんをたのしませよう」とした気持ちが
結果として、戦後の日本ではじめての試みを生んだのだった。

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三島邦彦 12年6月24日放送



美空ひばりと母

あなたがいちばん尊敬する人は誰ですか。
昭和の大歌手、美空ひばりはその質問に対して、
デビューしたての9歳の頃からその生涯に渡り、
「母です。」と答え続けた。

美空ひばりの母、加藤喜美枝。

戦時中、夫が戦地へ向かったため、
夫が帰って来るまで、残された魚屋をつぶしてはいけないと
ゴムの長靴をはいて市場に仕入れに出かけ、
女手一つで切り盛りをした。

戦時中は自ら庭に防空壕を掘り、
戦後は娘の地方巡業や海外公演に必ず同行し、
娘の和枝を守り、
大歌手、美空ひばりへと育て上げた。

これは、美空ひばりの言葉。

 お母さん。私がこうして一人前になれたのは、あなたのおかげです。
 お母さんと和枝と二人で美空ひばりという歌い手をつくったのです。
 お母さん、あなたが美空ひばりなのよ。

喜美枝と和枝。
どこへ行くにも一緒の親子。
今は、美しい空の上で一緒にくらしている。

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三島邦彦 12年6月24日放送



美空ひばりの歌

自分の歌を歌いたい。
幼い日の美空ひばりはずっとそう思っていた。

大人顔負けの歌声を珍しがられて、
ずっと意味もわからない大人の歌を歌わされてきたひばり。

人のまねではなく、自分の歌を歌わなければ、
大人たちが本当には認めてくれないということが、わかってきた。

そんな中、子役として出演した映画の中で、
ひばりのために歌が作られることになった。

もう、ものまねではない、だれにも気がねする必要はないんだ。

美空ひばりは、その名前のように、
とても晴れやかな心もちになったという。

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中村直史 12年6月24日放送


Ako
美空ひばりの使命

美空ひばりは、幼いころから全国各地をめぐり、人々の前で歌った。
10歳のときのこと。
四国巡業中に、乗っていたバスが崖下へ転落する。

頭と胸を強く打ち、左手首からはひどい出血。
バスの中ら助け出されたときは仮死状態だったが、
奇跡的に回復し、実家の横浜へと戻った。

事故に驚いたのが、ひばりの父。
もともとひばりの芸能活動に反対していたこともあり、
今後一切、歌手活動をさせない、と迫った。
おそろしい父を前に、わずか10歳の少女は決して首をたてにふらなかった。
泣きながら、ただただ、歌手をやめたくない、と言いつづけた。

 私の人生のテーマはそのとき決まりました。
 私は歌い手になるために生まれてきたんだ。
 だから、神様が生命を救ってくれたんだって。

その日から42年間。
美空ひばりは、自分の使命を一瞬たりとも疑わなかったように
命を燃やしながら歌いつづけた。

今日、6月24日。
亡くなってから23年がたつ今も、
美空ひばりはたくさんの人の心の中で歌いつづけている。

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三國菜恵 12年6月24日放送



美空ひばりの信念

歌手・美空ひばりは、
大人の歌を大人顔負けにうたいあげる
めずらしい少女だった。

けれども、中にはそれをこころよく思わない人もいた。

たとえば、
『買い物ブギ』などで一世を風靡していた歌手・笠置シズ子からは
「私の歌をカバーしてはなりません」とクレームがあった。

さらには、新聞のコラム欄で、
「こどものくせ大人の歌をうたうな」と叩かれたこともあった。

けれども、ひばりは、どんな言葉にもぐっとこらえた。
そこには、こんな思いがあったという。

喧嘩したってろくなことにはなりません。
とにかく仕事をしちゃった方が勝ちなのです。

「不言実行」の精神で、
彼女はひとつひとつ確実に自分の居場所を手に入れていった。

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中村直史 12年6月24日放送


MO
美空ひばりの感覚

なぜ美空ひばりの歌声に
日本中が心を動かされたのか。
その秘密は、美空ひばりが子どものころから持ちつづけた
独特の感覚にあったのかもしれない。

 歌を歌います。するとお客さまの心がピーンと伝わってくるんです。
 隅のほう、大むこう、上手、下手、劇場のあらゆる場所から、
 楽しい気分や悲しい気分が、はねかえってきます。
 その気分と一つになり、溶け込んでいくんです。

美空ひばりは、
ひとりで歌っているのではなった。
みんなとともに歌っていた

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三國菜恵 12年6月24日放送


KYR
美空ひばりと詩

歌手・美空ひばりは
歌うこと以外にもうひとつ好きなことがあった。
それは詩を書くこと。

詩というものは、
相手に自分の気持を、
わずか四行ぐらいでわかってもらえるので、
こんなにいいものはない

彼女にとって自分の思いを詩にすることは
歌手として過ごすときとは別の、
何か特別な解放感があったのかもしれない。

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岡安徹 12年6月23日放送


星玉
旅のはなし/山下清

裸の大将の愛称で親しまれた
貼り絵作家、山下清。

彼が全国を放浪し、旅先で見た風景を
驚異的な観察力と記憶力で貼り絵として再現したのは有名な話。

しかし、なぜ彼は放浪にでたのか。
当時、周囲の人がその理由を尋ねると
「兵隊にいくのがイヤだったから」と応えたという。

奇しくも、戦争に向かう国内情勢が山下清を放浪に導き
類い希なる芸術作品を誕生させたのだ。

旅の理由は、どこに転がっているかわからない。



旅のはなし/ジェームズ・クック

世は18世紀。大航海時代とよばれ
世界地図にまだ空白が多かった頃。
海の向こうに未開の大地があると信じ、
航海にでた船乗りがいた。
彼の名をジェームズ・クック。
後にクック船長として歴史に名を残す男である。

かれは卓越した航海術をもち、
当時ヨーロッパで伝説となっていた
オーストラリアへの上陸をはたし、
人類がまだ知らない世界地図の1/3を埋めた。

クック船長の航海日誌にはこう記されている。
「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、
人間が行ける果てまで私は行きたい」

いまだ世界の果てがあった頃、旅は希望そのものだった。



旅のはなし/ゲーテ

「人が旅をするのは、到着するためではなく、
道中を楽しむためである」 
と言ったのは、詩人ゲーテ。

ゲーテは、実に多くの恋をし、
多くの別れを経験した。

複雑な人間関係、葛藤、遂げられない思い。
身を焦がすような日々の末に訪れる別れを経験するごとに
人の心を惹きつける作品を生み出した。

成就しない恋も、その最中こそが醍醐味。
それは、人を魅了する旅と恋の共通点のひとつ。



旅のはなし/伊能忠敬

旅をするのに欠かせない、地図。

日本の地図が最初につくられたのは
江戸時代、伊能忠敬によるもの。

50歳を過ぎてから、地球の大きさを
測る子午線の長さを求めるべく私財を投じ
測量に出た。

その後幕府の後援をえて、驚くべき精度の日本地図を
作り上げるまで自分の足で歩きとおす。
その距離約4万キロ。
地球を一周してしまうほどの距離である。

想像を絶する偉業を成し遂げた忠敬は、
こんな言葉を残している。

「願望は寝ても覚めても忘れるな。どんなに状況が変化しようが、
一時も忘れずに心がけていれば、かならず事は成し遂げられる。」

何気なく見ていた地図には、目には見えない情熱が詰まっていた。

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