「女流の言葉・有吉佐和子」イヤリング
昭和31年、25歳で「地唄」を発表し
デビューを飾った有吉佐和子。
それまでの日本近代文学の主流は、私小説。
けれども彼女は、社会性のあるテーマで物語を書いた。
その有吉がイヤリングに凝っている時期があった。
昭和30年代、身につけるものに愛着をもつのは、
おおむね愚かな女であり、見下されていた。
小さな国の、敗戦のあとを生きている私たちだ。
せめて気持ちだけでも豊かにくらしたい。
私は誰にも迷惑をかけぬ範囲で、
本当の意味の贅沢の精神を養っているつもりなのだ。
アクセサリーを楽しむ、その先の心を、
今に先駆けて伝えている。
「女流の言葉・有吉佐和子」花のかげ
有吉佐和子は、
「華岡青洲の妻」「恍惚の人」「複合汚染」など、
タブー視されていた社会問題を取り上げ
ストーリー性の高い小説へと昇華させた。
昭和33年に刊行された「ずいひつ」に
おさめられた「花のかげ」で
サクラの花の季節に新しい学年が始まるのは、
本当にいい、と書いている。
姪っ子と弟の入園入学に家族に笑顔の花が咲いた、と。
そして思いを寄せる。
ふと入試に失敗した高校生や、
中学卒業と同時に就職した子どもたち、
幼稚園に行かせる余裕のない家の子たちを思い出した。
花の下にも翳のあることに気がつくと、いたたまれない。
だれにも遠慮せずに誇らかに幸福を酔うことの
できる世の中は、いつ来るのだろう。
社会を、世の中を思う気持ちは、彼女を自由にしてくれないのだ。
Swami Stream
「女流の言葉・有吉佐和子」女流作家
有吉さん、女流作家だと言われたら、
恥辱と心得なさいよ。
昭和30年代25歳でデビューした有吉佐和子は、
小説を書きはじめた頃、方々でこう言われたという。
女だから甘い目で認められていては、情けない。
女で小説を書くのは容易なわざではなかった。
女のほうが楽に世に出られる時代だ。
「女流」に対する本質的な反感だった。
でも彼女は、ならばここから築くしかない、
女なのだから女流と呼ばれても仕方のないことだ、
と消極的な肯定という結論を出す。
女を吹き切れ、とか、
女でなくなった年齢から本当の文学が生まれるのだ、とか、
男性たちはのたまうけれども、
女にそんなことを言うのは勝手な話だ。
女は、自らの女性(おんなせい)を突き抜けるとき、
豊かな開花を見せることができ、
このとき男性の追随を許さなくなる例を、
岡本かの子が立証しているではないか。
そしてそんな世間の呼び名に気を散らしている暇があったら、
机にかじりついて原稿用紙と取り組んでいたほうが懸命だと考える。
「女流の言葉・岡本かの子」岡本一平
岡本太郎の母であり、歌人、小説家、岡本かの子。
天真爛漫、奔放な情熱家、恋多き女。
夫、岡本一平がありながら恋に落ち、破局し、精神を病んでしまう。
その危機的状況を乗り越えたあと、夫について客観的に論じる。
主人一平氏は家庭に於いて、平常、大方無口で、
沈鬱な顔をしています。
この沈鬱は、氏が生来持つ現世に対する
虚無思想からだ、と氏はいつも申します。
それゆえに氏は、親同胞にも見放され、
妻にも愛の叛逆を企てられ、
随分、苦い辛い目のかぎりを見ました。
この冷静さが、かの子の凄みである。
Melissakis, H.
「女流の言葉・岡本かの子」太郎
岡本太郎の母、かの子。
彼女の創作にかける意欲はすさまじく、
太郎を柱に縛り付けて原稿を書いていたという
エピソードは有名である。
けれど彼女自身、そんな自分をよく知っていた。
ある日の日記である。
太郎をうったあと、自分がいつでも一人で泣く。
太郎をうつことは自分をうつことだ。
正直だが一徹で弱気なくせに熱情家だ。
私そっくりなあの子。それ故に可愛ゆい。
それゆえにまた私を怒らす。
太郎への愛情がわき上がるのを感じ、
かの子はじっとしていられなくなる。
けれど、露骨にいたわりにいくのは恥ずかしい。
仕方がないので明朝のレコードをしらべにかかる。
ルソーのリゴレットを抜いておくのだ。
レコードを選んでおくのは、次の朝、太郎の登校時に
音楽をかけるため。
気分を爽やかにしてやるための毎朝の習慣だった。
「女流の言葉・岡本かの子」美しいママ
岡本かの子の天真爛漫さ、
息子太郎への激しい愛情を、
恐ろしいほどに感じる散文詩がある。
わたしは今、お化粧をせっせとして居ます。
きょうは恋人のためではありません。
あたしの息子太郎のためにです。
わたしの太郎は十四になりました。
太郎がいつか美しい恋人を持つとしても、
ママが汚くては悲観する。
だから美しいママでありたい、と綴る。
それでなければ太郎の幸福は完全ではないと。
この激しさ、かの子以外には到達し得ない。
Ramon Masip
「女流の言葉・岡本かの子」手紙
岡本かの子の、息子太郎への愛情の強さと深さ、お互いの強烈な相似。
それゆえに母と子は遠く引き離されなければなかった。
かの子は、パリに住む太郎に手紙を書いてる
えらくなんかならなくてもよい、と私情では思う。
しかし、やっぱりえらくなるといいと思う。
えらくならなくてはおいしいものもたべられないし、
つまらぬ奴にはいばられるし、こんな世の中、
えらくならなくてもよいような世の中だから
どうせつまらない世の中だからえらくなって
暮らす方がいいと思う。
複雑で正直な母の思い。
「女流の言葉・岡本かの子」素朴な子
昭和13年、岡本かの子は3度目の脳溢血に倒れる。
その直前に27歳の息子太郎に送った手紙は、
それまでの関係を詫びるようで、あわれむようで、切ない。
太郎さんの喜んで貧乏しますという手紙を見て
昨夜から私は泣き続けているのですよ。
お前はやっぱりそんな可愛ゆい
しおらしい素朴な子だったのね。
この私の可愛らしい可哀そうな性質をうけた子だったのね。
かわいそうでかわいそうで、
私の身を刺し殺してしまいたいほども嬉しい悲しい
自分の子の正体を見たものよね。
日本へ帰ってきてそばで、わがままして暮らして下さい。
翌年、かの子は世を去る。享年49歳。激しい人生だった。