2012 年 7 月 22 日 のアーカイブ

宮田知明 12年7月22日放送



草野マサムネとザ・ブルーハーツ

スピッツのボーカリスト、草野マサムネは、
大学入学当初、「チーターズ」というバンドを組んでいた。

もともと、そんなに
上昇志向があるわけではなかったが、
たくさんのバンドを見るうちに、
当時のバンドマンたちのあこがれだった「新宿ロフト」の
ステージに立ちたい、と思うようになっていった。

そんな矢先、草野は、ある曲と出会う。
ザ・ブルーハーツの、「人にやさしく」

「こんなバンドがやりたい」という、
草野の理想が、そこにあった。
このままでは、ブルーハーツの後追いになってしまう。
そう思うと、やる気がどんどんしぼんでいき、
結果、チーターズは自然消滅。

でも、その約1年後、草野の出した答えは、
「もう一回、バンドをやろう。
しかも、今度は新宿ロフトをめざせるようなバンドを。」

バンド名は、「スピッツ」。
草野が、高校時代から、バンドをやるならこれがいい、
と思っていた名前だった。


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草野マサムネとアコースティックギター

「ブルーハーツみたいな音楽をやっていても、
 この先、未来はないんじゃない?」

スピッツのインディーズ時代、
渋谷のライブハウス、「ラ・ママ」でライブを行った後、
草野が店長から言われた言葉。

真似をしているつもりはなかった。
でも、確かにブルーハーツの影響は受けていた。

このときから、草野はエレキギターを手放し、
アコースティックギターを持ってライブに出るようになった。
楽曲も、ビート系から、メロディアスな方向に変わった。

「スピッツらしさ」の原型が、できあがった。
そのきっかけは、ライブハウスの店長の、
ふとした一言。



草野マサムネと新宿ロフト

スピッツの、当初の目標。
それは、当時のバンドマンの憧れ、
「新宿ロフト」のステージに立つこと。

その機会は、意外と早くまわってきた。

バンド結成から2年後、
スピッツのデモテープを聴いたあるイベント会社の人が、
新宿ロフトで行うイベントに参加しないか、
と声をかけてくれたのだ。
そしてその5カ月後、スピッツは新宿ロフトで
ワンマンライブを果たす。

でも、草野は満足しなかった。

新宿ロフトは、日本のロックの歴史を作ってきた老舗のライブハウス。
その、ロフトの名前にふさわしいライブをやらないと。

目標にたどり着くと、また次の目標が生まれる。
そうやってスピッツは成長を続け、
結成から4年というスピードで
メジャーデビューを果たすのだが、
その後の苦労は、また別のお話。


NguyenDai
草野マサムネと売れないジレンマ

メジャーデビューし、3枚のアルバムを出したが、
まったく売れる兆しのなかったスピッツ。

アルバムの売り上げも、
出すごとに少しずつ落ちていた。

スピッツを、たくさんの人に聴いてほしい。
そうやって、真剣に努力してくれている周りのスタッフに、
草野は申し訳ない気持ちだった。

オリコンにチャートインして、
みんなに恩返ししたい。
そのためには、もっとポップな曲を…
4枚目の「Crispy!」は、そんな想いを
形にしたアルバム。

しかし、結果的に「Crispy!」は、チャートインしなかった。
売れようと努力したのに売れなかった。
草野の落ち込みは、相当なものだった。

でも、その影では、新しいファンが生まれ、
ラジオ局やレコード屋がプッシュするようになっていた。

そして次のアルバム、「空の飛び方」は、
オリコン・アルバムチャートで14位に入る。
「Crispy!」での努力は、次のアルバムにあらわれた。



草野マサムネと自分の声

「マサムネの歌は、高いキーで、
もっと張って歌った方が聴き手に届くよ。」

音楽プロデューサー、笹路正徳の言葉に、
草野は驚かされた。

今でこそ、草野のハイトーンの声の美しさが
スピッツの魅力のひとつであることは
誰もが認めるところだが、
当時、草野は、ハイトーンの自分の声が嫌いだった。

「ロックはクールに」という思い込みがあり、
わざとキーを低く設定して唄っていたのだ。

自分では気づかない魅力を
気づかせてくれる人がそばにいたことが、
草野にとって、幸運だった。

ハイトーンの声でそのまま歌う。
これをきっかけに、スピッツの音楽は、
より明るく、美しいものになっていく。



草野マサムネとスピッツバブル

「地味な曲だなぁ。」

そう、メンバーで話しながら作った曲が、
162万枚のミリオンセラーとなった、
「ロビンソン」。

その後のスピッツは、本人たちが
「スピッツバブル」と称するほど、
売れに売れ続けた。

ただ、当の草野は、頂点に立ちたいとか、
いい車に乗りたいとか、
スターの考えるようなことには興味がなかった。

これで、しばらく音楽を続けられる。
それだけで十分だった。

そんな当時の、草野のささやかな幸せとは。

 「CDを買うとき、前は5枚の中から1枚を選んで買っていた。
  でも今は、まとめて5枚、大人買いできることが幸せだ。」


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草野マサムネと新しい壁

「いまだに、聴きたくないアルバムがある。」

スピッツのボーカル、
草野マサムネがそう言いきるアルバムの名前は、
「フェイクファー」。
音楽プロデューサー、笹路正徳から離れて
最初に作ったアルバムだった。

けれども、自立しようとしたはずなのに
どうやって曲を作ったらいいか、
どんな詞を乗せればいいか、わからなくなった。
ギリギリまで歌詞ができず、ブースの中にまで
ノートと鉛筆を持って入った。

しかし、そんな「フェイクファー」を、
いちばん好きだと言うファンも多い。
それを証明するかのように、『フェイクファー』ツアーは、
大きな成功を収める。
「ライブバンド」としてのスピッツが、確立しつつあった。

壁につきあたっていると感じているとき、
スピッツは、実は前に進んでいた。



草野マサムネと3人の男

「20年以上、同じメンバーで
続けてこられたのはなぜですか?」

そんな問いに、スピッツのボーカリスト、
草野マサムネは、
「4人が、同じ方向を向いていたから。」
と答えている。

しかし
チーターズの頃からずっと草野とともに歩んできたベーシスト
田村明浩は言う。

 スピッツの4人は、誰ひとりとして先のことを
 考えてやってきたわけじゃない。
 ただ、少なくとも草野以外の3人は、
 草野の曲がある限りスピッツは続くと思っている。

20年間、続いた理由は、
「大好きな曲がそこにあるから」

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