2012 年 8 月 12 日 のアーカイブ

阿部広太郎 12年8月12日放送



日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 1

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは、
日本にスポーツマンシップを広めた男でもある。

明治時代のボートの試合。
日本人選手は一位がゴールをすると、
その瞬間に漕ぐのをやめてしまう。

勝負を放棄するその「手抜き」を、
ストレンジは見過ごせなかった。

「スポーツで最も大切なことは、
 互いにベストを尽くして戦うこと」

彼は生涯をかけて、
日本人にスポーツマンシップを語り続けた。

その結果は、
オリンピックを見た方ならおわかりだろう。
いまや手を抜く選手など、ひとりもいない。

たくさんの感動を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


L’s Mommy
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 2

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ。
彼は明治6年、英語教師としてロンドンからやってきた。

「スポーツの魅力を日本の学生にも知ってほしい」
スポーツマンでもあったストレンジは、
放課後に学生たちをグラウンドへ誘いはじめる。

しかし、彼の思いは届かない。

「勉強を一日休むと、日本が一日遅れる」

近代国家を支えるべく一心不乱に勉強する学生たちには、
スポーツに目を向ける余裕などなかったのだ。

ストレンジは諦めず、
彼らを参加させるための一計を案じた。
それまで日本になかった「運動会」を開催したのだ。

もちろん当時の日本に、専用の器具などない。
ハイジャンプ用のポールには竹竿を。
ハードルには学校のベンチを。
スタートの合図に使われたのは、
折り畳んだ黒いこうもり傘だった。

お祭りの要素もある運動会は、学校中を巻き込んで大賑わい。
ここから運動会は、日本中に広まっていく。

いま、ストレンジの故郷ロンドンで
「世界の運動会」が行われている。
日本人の活躍を彼が見たら、なにを思うのだろう。

たくさんの興奮を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。



日本サッカーの父 デットマール・クラマー

日本サッカーの父、デットマール・クラマー。

1960年にドイツから来日し
代表コーチに就任したクラマーは、
リフティングも満足にできない選手たちに愕然とし、
発破をかけた。

「ドイツにはゲルマン魂がある。
 日本人にも素晴らしい大和魂がある。
 私に大和魂を見せてくれ」

その8年後のメキシコオリンピック。
日本代表は銅メダルを獲得する。

死力を尽くし、試合後に倒れこむ選手たち。
クラマーも泣いていた。
メダルが嬉しかったのではない。
約束を守りぬいた教え子たちの姿に、
涙をこらえきれなかったのである。

たくさんの大和魂を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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藤本宗将 12年8月12日放送



日本体操の父 坪井玄道

日本体操の父と呼ばれる、坪井玄道。
幕末の混乱期に農家の次男として生まれた彼は、
医学を志して江戸に出た。
そこで彼は熱心に英語を学ぶ。
時代の大きな変化の中で、
語学の大切さを敏感に感じ取っていたのだろう。

やがて明治に入ると、
彼の先見性が活かされることになった。
欧米文化を積極的に導入しようとする流れの中、
坪井は師範学校で通訳の職を得る。

そこである人物と出会い、
彼の人生は大きく変わっていった。
その相手とは、通訳を担当したアメリカ人体操教師リーランド。

体操の授業は、言葉だけでは伝えられない。
生徒の前でリーランドの通訳をしながら、
坪井は体操の技術も体得してしまう。
やがて体操の虜となった彼は、
帰国したリーランドの後継者となって体操教師の道を歩む。

欧米に比べて体格が劣る日本人の体力向上に、
きっと体操が役立つと考えたのだ。

しかし坪井は、その先まで予見できていただろうか。
自らの体操教育が、やがて体操王国日本の基礎を築くことを。
スポーツの歴史にも、筋書きのないドラマがある。

たくさんのドラマを、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本オリンピックの父 嘉納治五郎

日本におけるウエイトリフティング競技は、
ウィーンから持ち帰られた
ひと組のバーベルからはじまった。

持ち帰った男の名は、嘉納治五郎。
言わずと知れた柔道の創始者。

日本における柔道の父は、
ウエイトリフティングの父でもあったわけである。

彼は日本で初めての国際オリンピック委員として、
ウィーンでの国際会議に出席していたのだった。

柔道だけにこだわらず、
あらゆるスポーツに情熱を注いだ嘉納。
彼の柔軟な感覚によって
やがて多くのメダルが日本にもたらされた。

武道だけでなく、彼自身の生きる道そのものが
柔の道だったのだろう。

たくさんの栄光を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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村山覚 12年8月12日放送



日本レスリングの父 八田一朗 1

日本レスリング界の父、八田一朗は、元々柔道家だった。

柔道を普及するために訪れたアメリカで、
レスリング選手と他流試合をして、負けた。
そして、魅了された。

柔道の師である嘉納治五郎からは

 「レスリングを始めるのもよいが、50年かかるよ」

と言われた。

八田が日本初のレスリング部をつくったのが昭和6年。

その21年後、
戦後の日本に初めてもたらされた金メダルは、
水泳でも体操でもなく、
レスリング選手の太い首にかけられた。

その日、レスリングは日本のお家芸となった。

たくさんの奇跡を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本レスリングの父 八田一朗 2

 「批判記事でもいいから、レスリングの事を書いてくれ。」

レスリングの父、八田一朗は
マスコミの影響力を熟知していた。

柔道やプロレスと比べると、
アマチュアレスリングはマイナースポーツ。
そこで、八田は策を講じた。

負けたら全身の毛を剃る、動物園でライオンとにらめっこ、
寒中水泳、真夜中の練習…。
八田の奇抜な練習法は、マスコミに話題を提供しつづけた。

勿論、批判も多くあっただろう。

しかし、この冗談のような練習に取り組んだ選手たちは、
ちゃんと結果を出した。
日本から生まれた世界チャンピオンは、60年でおよそ50人。
八田が話題を提供しなくても、
マスコミがレスリングを放っておかなくなった。

有効ポイントを取られても、
最後に1秒フォールを取れば逆転できる。
レスリングらしい広報戦術である。

たくさんの話題を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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