2012 年 8 月 のアーカイブ

厚焼玉子 12年8月18日放送



麦わら帽子 1 西条八十

西条八十 「帽子」

 母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?
  ええ、夏、碓氷から霧積(きりづみ)へゆくみちで、
 谿底へ落としたあの麦藁帽子ですよ。

 母さん、本当にあの帽子どうなったでせう?


 そのとき傍に咲いていた車百合の花は、
 もうとうに枯れちゃつたでせうね。


 そして、秋には、灰色の霧があの丘をこめ、


 あの帽子の下で毎晩きりぎりすが鳴いたも知れませんよ。


標高1000メートルの山道から谷底に向かって飛ぶ
西条八十の麦わら帽子。
詩人が描き出した一枚の絵は、日本人の心にいまも残る。


違いがわかる男
麦藁帽子 2 立原道造

立原道造 「麦藁帽子」

 八月の金と緑の微風(そよかぜ)のなかで
 眼に沁みる爽やかな麦藁帽子は
 黄いろな 淡い 花々のやうだ
 甘いにほひと光とに満ちて
 それらの花が 咲きそろふとき
 蝶よりも 小鳥らよりも
 もつと優しい愛の心が挨拶する

わずか7行のこの詩は
いままでに8人の作曲家によってメロディをつけられ
独唱曲や合唱曲に仕立てられている。
その歌をきくと
立原道造が愛した軽井沢の幸せな夏が浮かぶ。


Fx
麦藁帽子 3 寺山修司

寺山修司 麦藁帽子のうた

 海を知らぬ 少女の前に麦藁帽の
  われは両手をひろげていたり」

 わが夏を あこがれのみが駆け去れり
  麦藁帽子被りて眠る

 列車にて 遠く見ている向日葵は
  少年のふる帽子のごとし

 ころがりし カンカン帽を追うごとく
  ふるさとの道駈けて帰らん

寺山修司の麦藁帽子はふるさとの匂いがする。
「もしかしたら私は憎むほど故郷を愛していたのかもしれない」と
寺山自身が書いている、そのふるさとである。



麦藁帽子 4 堀辰雄

堀辰雄 「麦藁帽子」

 お前はよそゆきの、赤いさくらんぼの飾りのついた、
 麦藁帽子をかぶっている。
 そのしなやかな帽子の縁が、私の頬をそっと撫でる。
 私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。
 しかしお前はなんの匂いもしない。
 ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするきりで。
 ……私は物足りなくて、
 なんだかお前にだまかされているような気さえする。

堀辰雄の短編小説「麦藁帽子」の主人公は
15歳と13歳の少年と少女。
少女は友人の妹だった。
やがて、海辺の村で一緒に夏休みを過すことになるが
少女はまだあどけなく、少年の思いが届かない。

「麦藁帽子」に描かれた淡い恋の舞台は千葉の海岸で
中学生だった堀辰雄は数学が好きな少年だった。


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麦わら帽子 5 芥川龍之介

芥川龍之介の「麦わら帽子」

 この標準を用ひずに、
 美とか真とか善とか言ふ他の標準を求めるのは
 最も滑稽な時代錯誤であります。
 諸君は赤らんだ麦藁帽のやうに旧時代を捨てなければなりません

芥川龍之介「侏儒(しゅじゅ)の言葉」の文章である。
その内容はともかく
「赤らんだ麦藁帽のように旧時代を捨てなければ」という言葉が
印象深い。

陽に焼けて色が変わった麦藁帽は
おしゃれではないのだ。

芥川龍之介は麦藁帽子の似合う作家だった。
その最後の写真に
芥川は麦藁帽子にくわえ煙草で写っている。


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麦藁帽子 6 北原白秋

北原白秋の「麦わら帽子」

 麦藁帽子にトマトをひとつ
 抱えて歩けば 暑いよおでこ

北原白秋の童謡「トマト」は
夏の絵の具で描かれた絵本のようだ。

赤いトマトと麦わら帽子
あとの風景は
真夏の昼下がりの暑い日差しに
白くかすんでいる。


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麦わら帽子 7 中原中也

中原中也の「麦わら帽子」

 愛するものが死んだ時には、
 自殺しなけあなりません。
 愛するものが死んだ時には、

 それより他に、方法がない。

 けれどもそれでも、業が深くて、
 なほもながらふことともなつたら、

 奉仕の気持に、なることなんです。

 奉仕の気持に、なることなんです。

 テムポ正しき散歩をなして

 麦稈真田(ばっかんさなだ)を敬虔に編み――

 まぶしくなつたら、日蔭に這入り、

 そこで地面や草木を見直す。

この詩に出てくるバッカン真田とは
麦藁を平たく編んだものをいう。
麦わら帽子はバッカン真田からつくられる。
バッカン真田を編むのは、意志も想像力もない単純な仕事だ。

2歳の息子を亡くした中原中也は
自分をなくすことによって生きようとしている。

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阿部広太郎 12年8月12日放送



日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 1

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは、
日本にスポーツマンシップを広めた男でもある。

明治時代のボートの試合。
日本人選手は一位がゴールをすると、
その瞬間に漕ぐのをやめてしまう。

勝負を放棄するその「手抜き」を、
ストレンジは見過ごせなかった。

「スポーツで最も大切なことは、
 互いにベストを尽くして戦うこと」

彼は生涯をかけて、
日本人にスポーツマンシップを語り続けた。

その結果は、
オリンピックを見た方ならおわかりだろう。
いまや手を抜く選手など、ひとりもいない。

たくさんの感動を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


L’s Mommy
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 2

日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ。
彼は明治6年、英語教師としてロンドンからやってきた。

「スポーツの魅力を日本の学生にも知ってほしい」
スポーツマンでもあったストレンジは、
放課後に学生たちをグラウンドへ誘いはじめる。

しかし、彼の思いは届かない。

「勉強を一日休むと、日本が一日遅れる」

近代国家を支えるべく一心不乱に勉強する学生たちには、
スポーツに目を向ける余裕などなかったのだ。

ストレンジは諦めず、
彼らを参加させるための一計を案じた。
それまで日本になかった「運動会」を開催したのだ。

もちろん当時の日本に、専用の器具などない。
ハイジャンプ用のポールには竹竿を。
ハードルには学校のベンチを。
スタートの合図に使われたのは、
折り畳んだ黒いこうもり傘だった。

お祭りの要素もある運動会は、学校中を巻き込んで大賑わい。
ここから運動会は、日本中に広まっていく。

いま、ストレンジの故郷ロンドンで
「世界の運動会」が行われている。
日本人の活躍を彼が見たら、なにを思うのだろう。

たくさんの興奮を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。



日本サッカーの父 デットマール・クラマー

日本サッカーの父、デットマール・クラマー。

1960年にドイツから来日し
代表コーチに就任したクラマーは、
リフティングも満足にできない選手たちに愕然とし、
発破をかけた。

「ドイツにはゲルマン魂がある。
 日本人にも素晴らしい大和魂がある。
 私に大和魂を見せてくれ」

その8年後のメキシコオリンピック。
日本代表は銅メダルを獲得する。

死力を尽くし、試合後に倒れこむ選手たち。
クラマーも泣いていた。
メダルが嬉しかったのではない。
約束を守りぬいた教え子たちの姿に、
涙をこらえきれなかったのである。

たくさんの大和魂を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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藤本宗将 12年8月12日放送



日本体操の父 坪井玄道

日本体操の父と呼ばれる、坪井玄道。
幕末の混乱期に農家の次男として生まれた彼は、
医学を志して江戸に出た。
そこで彼は熱心に英語を学ぶ。
時代の大きな変化の中で、
語学の大切さを敏感に感じ取っていたのだろう。

やがて明治に入ると、
彼の先見性が活かされることになった。
欧米文化を積極的に導入しようとする流れの中、
坪井は師範学校で通訳の職を得る。

そこである人物と出会い、
彼の人生は大きく変わっていった。
その相手とは、通訳を担当したアメリカ人体操教師リーランド。

体操の授業は、言葉だけでは伝えられない。
生徒の前でリーランドの通訳をしながら、
坪井は体操の技術も体得してしまう。
やがて体操の虜となった彼は、
帰国したリーランドの後継者となって体操教師の道を歩む。

欧米に比べて体格が劣る日本人の体力向上に、
きっと体操が役立つと考えたのだ。

しかし坪井は、その先まで予見できていただろうか。
自らの体操教育が、やがて体操王国日本の基礎を築くことを。
スポーツの歴史にも、筋書きのないドラマがある。

たくさんのドラマを、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本オリンピックの父 嘉納治五郎

日本におけるウエイトリフティング競技は、
ウィーンから持ち帰られた
ひと組のバーベルからはじまった。

持ち帰った男の名は、嘉納治五郎。
言わずと知れた柔道の創始者。

日本における柔道の父は、
ウエイトリフティングの父でもあったわけである。

彼は日本で初めての国際オリンピック委員として、
ウィーンでの国際会議に出席していたのだった。

柔道だけにこだわらず、
あらゆるスポーツに情熱を注いだ嘉納。
彼の柔軟な感覚によって
やがて多くのメダルが日本にもたらされた。

武道だけでなく、彼自身の生きる道そのものが
柔の道だったのだろう。

たくさんの栄光を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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村山覚 12年8月12日放送



日本レスリングの父 八田一朗 1

日本レスリング界の父、八田一朗は、元々柔道家だった。

柔道を普及するために訪れたアメリカで、
レスリング選手と他流試合をして、負けた。
そして、魅了された。

柔道の師である嘉納治五郎からは

 「レスリングを始めるのもよいが、50年かかるよ」

と言われた。

八田が日本初のレスリング部をつくったのが昭和6年。

その21年後、
戦後の日本に初めてもたらされた金メダルは、
水泳でも体操でもなく、
レスリング選手の太い首にかけられた。

その日、レスリングは日本のお家芸となった。

たくさんの奇跡を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。


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日本レスリングの父 八田一朗 2

 「批判記事でもいいから、レスリングの事を書いてくれ。」

レスリングの父、八田一朗は
マスコミの影響力を熟知していた。

柔道やプロレスと比べると、
アマチュアレスリングはマイナースポーツ。
そこで、八田は策を講じた。

負けたら全身の毛を剃る、動物園でライオンとにらめっこ、
寒中水泳、真夜中の練習…。
八田の奇抜な練習法は、マスコミに話題を提供しつづけた。

勿論、批判も多くあっただろう。

しかし、この冗談のような練習に取り組んだ選手たちは、
ちゃんと結果を出した。
日本から生まれた世界チャンピオンは、60年でおよそ50人。
八田が話題を提供しなくても、
マスコミがレスリングを放っておかなくなった。

有効ポイントを取られても、
最後に1秒フォールを取れば逆転できる。
レスリングらしい広報戦術である。

たくさんの話題を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。

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佐藤理人 12年8月11日放送


Chris Gionet
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学①「ピニンファリーナ」

2012年7月3日、
世界最高のカーデザイナーがこの世を去った。

イタリア随一のデザイン工房
「ピニンファリーナ」の二代目、
セルジオ・ピニンファリーナ。

創業者である父から
工房を受け継いだ彼は、
そのデザイン哲学をさらに押し進め、
フェラーリなど数々の名車を世に送り出した。

イタリア、トリノにある
ピニンファリーナ本社に飾られた
父バティスタの肖像には
こんな言葉が刻まれている。

 イタリアンスタイル。
 それはバランスの美しさとシンプルさ、
 そして線の調和である。

 その美しさは時代を超えて生き続け、
 決して記憶の中にだけ
 留まるものであってはならない。

ピニンファリーナは、
車を単なる移動の手段から、
科学と美の融合体にまで昇華させた。


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~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学②「フィオラバンティ」

スーパーカー時代のフェラーリをデザインした男、
レオナルド・フィオラバンティ。

 スポーツカーは速くなければならない。

彼にとってデザインとは、
すなわち「速さ」であった。

エンジンは車体の中央にあるべきだと考えた彼は、
社長にそのことを進言。しかし答えはノー。

すると彼は内緒で試作車を制作、
強引に承認をもらう。

このデザインがもたらす速さによって、
フェラーリは現在の地位を築くことができた。

デザインとはときどき「闘い」でもある。


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~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学③「ジウジアーロ」

カーデザイナー、
ジョルジェット・ジウジアーロは
デザイン画を描いたことがない。

アイデアを頭の中で育てると、
紙には立体図で表現した。
実現不可能なデザインを描いても
意味がないからだ。

彼は言う。

 デザインを進化させるには、
 人との出会いを大切にし、
 いい関係を築き上げること。
 絵が描けるだけじゃダメなのさ。

彼は常にエンジニアとの対話を重視した。

面白いことを思いつくのは誰でもできる。
それを実現させてこそ、
真のアイデアと言えるのだ。


DryHeatPanzer
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学④「ガンディーニ」

 世間をアッと言わせること。
 頭にはそれしかなかったよ。

そう語るのは、
史上最も有名なスーパーカー、
ランボルギーニカウンタックの生みの親、
マルチェロ・ガンディーニ。

デザインにあたって制約は何もなかった。
マーケティングも多数決もなし。
誰にも邪魔されず、車への情熱を、
自由に形にできる環境がそこにはあった。

デザインが純粋だったからこそ
カウンタックは、
遠い日本の子供たちの
純粋な心を虜にできたのだと思う。


Alexxsandro
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑤「ベルトーネ」

車づくりにおいて、
エンジニアだけが大事にされた時代に、
デザイナーの必要性を理解していた男、
ヌッチオ・ベルトーネ。

ジウジアーロとガンディーニの師でもある
彼について、妻シニョーラはこう述べる。

 彼は自分の車作りについて
 若い子に惜しみなく教えたわ。
 自分のDNAが受け継がれてこそ、
 本物になれるとわかっていたのよ。

天才を育てるのも、また天才である。



~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑥「ブーレイ」

伝統工芸とハイテク。
一見正反対な日本の職人技術の結晶。

それらを生かすことこそ、
欧米の真似ではない
日本車づくりの鍵である。

そう語るのは
元三菱自動車デザイン本部長、
オリビエ・ブーレイ。

彼は言う。

 水の中を泳ぐ魚は、
 自分が水中にいることを知らないし、
 その水がきれいかどうかもわからない。

自分しか知らない自分らしさがあるなら、
他人しか知らない自分らしさもきっとある。

いや、もしかすると、
そっちのほうが
本当の自分かもしれない。


Brian Digital
~追悼ピニンファリーナ~
カーデザイナーの哲学⑦「中村史郎」

 デザインはスピーチだ。
 明確にスパッと述べるのがかっこいい。

そう語るのは日産のデザイン本部長、中村史郎。

細身のスーツに身を包み、
メガネからシャツ、ネクタイ、
靴下、靴に至るまで、色合わせも完璧。

ベストドレッサー賞も受賞した彼が、
車のデザインで最も大切にするもの。
それは、統一感。

家族にはどこか共通点があるように。
生み出されるすべての車にも、
作り手の想いが
貫かれていなければならない。

だからこそ、と彼は言う。

 人に興味を持つこと。
 感情、文化、社会の動きを理解すること。
 それが愛されるデザインをする上で一番大切。
 キレイな形を作るだけではダメなんです。

どんなにいいスピーチも、
聴く人の気持ちを考えて話さなければ、
心には響かない。

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大友美有紀 12年8月5日放送


jiroh
梨木香歩「自然をみつめる言葉」作家の肖像

梨木香歩。(なしきかほ)
1994年「西の魔女が死んだ」でデビューした、児童文学者。
彼女のプロフィールは、ほとんど公開されていない。
著作の紹介文には、生まれ年と師事した作家の名、
それまでの作品名が列挙されているだけだ。
インタビュー記事にも顔写真は添えられていない。

 読み手の中で物語が柔軟に働いてほしいと思っています。
 そのときに作家の顔がちらつくようでは邪魔になりますから、
 作家の存在は忘れてもらうのが一番いいのです。

けれど、彼女の思いには、数多くのエッセイで触れることができる。
渡り鳥を追う紀行文、カヤックで旅した水辺の思い出、
彼女が師事した英国の作家との暮らし。
梨木香歩は、人間と自然と、そして異界とのボーダーを歩く作家だ。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 シロクマ

梨木香歩の小説「西の魔女が死んだ」は、映画にもなった。
中学生の少女・まいは学校に行けなくなり、祖母の元に身を寄せる。
そして祖母が代々魔女の家系だったことを知り、
自らも魔女になりたいと修行をはじめる。
その第一歩は規則正しい生活を送ること。
野苺を摘んでジャムを作り、ハーブで草木の虫を駆除する、
自然に親しみながらの暮らし。祖母である魔女は言う。

 自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、
 後ろめたく思う必要はありませんよ。
 サボテンは水の中に生える必要はないし、
 蓮の花は空中では咲かない。
 シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、
 だれがシロクマを責めますか

この本を上梓した当時、梨木は自分と主人公を同一視されることに困惑した。
「いじめられたことがあるのですか?」と聞かれることもあった。
いじめられたことはない。
ただ、いじめ問題の報道にふれるたび、
その気分にシンクロしてしまい、切なかったという。

 「シロクマはハワイで生きる必要はない」というのは、
 私がこの本を執筆していた当時、
 人間関係にがんじがらめになった子どもたちと
 分かち合いたい言葉だった。


カノープス
梨木香歩「自然をみつめる言葉」 クリスマスローズ

児童文学者、梨木香歩は引っ越しを繰り返す。
定住に対する憧れと放浪癖がいつもせめぎあっている。
ある年、通りすがりの露店でクリスマスローズを買った。
最初の数年は、葉が茂るだけだったが
5、6年目から白い楚々とした花をつけるようになった。
その頃には、また引っ越しを考えている。

 私の定住欲求が彼女に新しい土地に根をはらせ
 しばらくすると放浪欲求が無理な移植に耐えさせる。
 けれども彼女はそのたびに新しい場所で茎をあげ葉を起こしてきた。
 花姿はたおやかだが、けしてへこたれない。
 また、その場から生き抜くための一歩を踏み出す。
 いつだって生きていくことにためらいがないのだ。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 森

児童文学者・梨木香歩が、ウラジオストック・
ウスリスキ自然保護区の森へ入ったときのことである。
同行者は、若い通訳の女性カーチャと、
自然保護区域の博物館の案内人の女性スヴェータ。

 森に入るのは久しぶりです、とカーチャが言った。
 私は村で育ったので、小さい頃はベリーを摘みに行ったり、
 キノコやナッツを採りに行ったり、
 森には毎日のように出かけていました。

まるで梨木の小説の「魔女修行のような」暮らし。
スヴェータが森の木についていろいろ解説をするが、
若いカーチャには専門知識がないので、詳しい通訳が出来ない。
それでも頭痛がするときは、この葉っぱを頭に乗せる、など
民間伝承のようなことはていねいに教えてくれる。
梨木は森から出たあとに、都会で生き抜くのとは違う
緊張感を強いられる気持ちを感じる。

 物音や気配、匂い、風の動き。
 少しでもキャッチするのが遅れれば、
 命を落とす危険のある場所。
 いやがうえでも五感は研ぎすまされていく

 
森はおとぎ話だけの住処ではないのだ。 



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 月明かり

梨木香歩は、十代の頃、山の中で暮らした。
そして月の明るい夜、屋根に上って、
本を読むのがひそかな楽しみだった。
それには、いくつかの条件が必要だった。

 山奥の、初秋の満月の夜、
 月が一番高く上がったとき、
 比較的大きい活字の本なら可能になる。

都会では無理だ。
文庫でも無理。
凍るような冬の月でも可能そうだが、
寒いので試したことがない。
場所と期間と時間限定のぜいたくだ。

 それがあれほど好きだったのは、
 自分の五感が不思議な開かれ方をしていく、
 そのせいだったと思う。

その開かれ方を覚えておいて、
たとえば都会でも空に浮かぶ雲と
自分の間の距離を測ってみる。
喧噪に閉じて、世界の風に開く。


まさお
梨木香歩「自然をみつめる言葉」 カラス

梨木香歩の仕事場には、顔なじみのカラスが来る。
越してきたばかりの時、ベランダの目の前の木々が揺れた。
カラスのデモンストレーションだった。
目が合う。お互いにニヤリとした。
以来、出かける時にはアイ・コンタクトをとるという。

 目が合うということは、時と場合によっては
 魔境を覗き込むようなものだ。
 容易に引きずり込まれそうな感覚は、
 幼い方がずっと強かった。
 そして恐怖もあった。
 今では、恐怖することもなくなったが、
 それはそれで怖い気がする。



梨木香歩「自然をみつめる言葉」 群れで生きること

児童文学者・梨木香歩は、
ベッドから起き上がれないほど疲れきって、
仕事もほとんどキャンセルする日々を送っていた時期がある。
そんな時、夢を見た。
山奥の宿を探しているのだが見つからない。
タクシーの運転手が案内所に電話をかける。
待っている間、音楽が鳴る。
西洋古楽のようでもあり民族音楽のようでもあり、
高い精神性と乾いた質感の響きをもった音に、
心底びっくりし、聞き惚れる。
運転手も「私はこういう音楽が一番好きなのです」と言う。
梨木の体調はこの夢を契機にして、少しずつ上向きになった。

 人は群れの動物であるから、他者と何かで共感する、
 ということに思いもよらぬほどのエネルギーをもらうのだろう。
 しかもそれが、自分自身の核心に近い、
 深い深いところでの共感ならなおさらのこと。

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佐藤延夫 12年8月4日放送



オリンピックの話/桜井孝雄

オリンピックでは、名言が生まれる。

1964年の東京オリンピック。
桜井孝雄選手は、ボクシングのバンタム級で金メダルを獲得した。
直後、記者からこんな質問を受ける。
「感激の涙が見られませんが?」
それに対し、桜井選手はこう答えた。

 水を飲まなかったら、涙の出ようがないですよ。

過酷な減量があったから、
粋なコメントが生まれたのかもしれない。


harrymoon
オリンピックの話/釜本邦茂

オリンピックでは、本音が聞こえる。

1968年のメキシコオリンピックで
男子サッカーは、銅メダルを獲得した。
当時、プロの選手は出場できなかったため、全員がアマチュアだった。

「あなたたちは、プロ並の練習をしているのか?」
海外の記者からの質問に、7得点をあげた釜本邦茂選手は、こう答えた。

  我々はみんなビジネスマンだ。
  8時間、会社の仕事をして、そのあとで練習をしている。

そう。スポーツマンは、誇り高きビジネスマンでもあるのだ。



オリンピックの話/金栗四三

オリンピックでは、事件が起こる。

これは今からちょうど100年前、
1912年のストックホルムオリンピックでの出来事だ。

マラソン日本代表の金栗四三(かなぐりしそう)選手は、
レース途中で意識を失い倒れてしまう。
目を覚ましたのは翌日のことで、
記録上は、競技中に失踪、行方不明と扱われた。

それから月日は流れる。
ストックホルムオリンピック55周年を祝う式典で、
委員会は金栗選手を招待し、行方不明になった場所からレースを再開させた。

オリンピック正式記録。
54年8ヶ月と6日、5時間32分20秒3。
ゴール後に彼は、スピーチでこんなコメントを残している。

  長い道のりでした。この間に孫が5人できました。

オリンピック史上、最も遅いマラソン記録。
感動とユーモアに満ちたこのタイムは、今後誰にも破られることはないだろう。



オリンピックの話/富山英明

オリンピックでは、なにかが終わり、なにかが始まる。

1984年、ロサンゼルスオリンピック。
男子レスリング57キロ級決勝の舞台に立っていたのは、
富山(とみやま)英明選手だった。

 やっと12年が終わった。これが現役最後の試合です。

金メダルを獲得したときのコメントは、いかにも苦労人らしい。
ちなみに、記念写真のときにメダルを噛む、
今ではお決まりになっている仕草は、
この人が最初に始めたという説がある。


AirmanMagazine
オリンピックの話/加藤喜代美

オリンピックでは、予想外のドラマが生まれる。

1972年のミュンヘンオリンピック。
男子レスリング代表の加藤喜代美選手は、
試合以外でも日本中を驚かせた。
羽田空港まで見送りにきた婚約者に、
突然プロポーズをしたのだ。

 帰ったら式を挙げよう。体育の日なんてどう?

そして加藤選手は、金メダルを獲得。
日本中は、二度驚かされた。



オリンピックの話/遠藤幸雄

オリンピックでは、英雄が現れる。

ローマ、東京、メキシコと3度にわたり
金メダルを獲得した、男子体操の遠藤幸雄選手。

その生い立ちは、決して恵まれたものではなかった。
小学3年生のときに母親を亡くし、
中学生になると養護施設に預けられた。
体操と出会ったのも、そのときだった。

大学在学中、日本代表に選ばれ数々の国際大会に出場し、
東京オリンピックでは、日本人初の個人総合優勝を果たす。
遠藤選手は、こんなコメントを残した。

 私はその感動で泣いたのです。
 私の涙は金メダルの涙ではない。
 自分に勝てた感動で涙をこぼしたのです。

彼は、亡くなるまで養護施設への援助を続けていたという。
本物の伊達直人が、ここにいた。

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