ドメーヌ・ピータン
宮脇綾子の世界1
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
ごく平凡な主婦でした。
夫は洋画家で、子どもが3人。
毎日、家の雑用に追われていると、
妻、あるいは母という立場で時間が流れてしまうことに
違和感を覚えたそうです。
そして第二次大戦が終わったとき、
自分の中に、ある気持ちが芽生えました。
今まで防空壕の中に入ったり、出たりした時間が、
そこにぽっかり浮いた。
ああそうだ、この時間で何かしてやろうと思ったのだ。
戦争に負けたショックなんて
微塵も感じさせないほどの強さをお持ちでした。
宮脇綾子の世界2
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
自由に、思うままに、作品をつくりました。
彼女のアップリケは、布のコラージュ。
モデルを観察し、大まかな形をスケッチして
それを布に写し取り、配色や布の柄を考える。
素材は、ありとあらゆるハギレのほか、
古着に布団の切れ端、コーヒーフィルターや畳縁まで何でも利用しました。
モチーフは、魚、果物、野菜、庭に咲く花々。
目に飛び込むものなんでも。全て。
工夫し、考え、そしてそれが出来上がったときの喜び、
この気持ちは作ってみた者でなくては分からない感激です。
綾子さんは、自分だけの芸術を手に入れました。
篁
宮脇綾子の世界3
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
少女時代に、裕福と貧しさの両方を味わったそうです。
小学生のとき親の家業が傾き始めると、
何人もいたお手伝いさんや書生がいなくなり、
女学校の道も諦めました。
貧乏は悲しい。
人にも言えず、憶い出したくもない。
死んでしまいたいと思ったことも幾度かあった。
そのうち、ひとつの小さな縁から、
ある青年との文通が始まりました。
それはのちに夫婦という深い絆で結ばれる、
洋画家の宮脇晴(はる)さんでした。
運命は綾子さんに、やっと微笑んでくれました。
宮脇綾子の世界4
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
なかなか頑固な人でした。
アップリケを始めるときも、
「家でできること」「人がまだ手がけていないこと」
という取り決めを自分の中でつくったそうです。
アップリケに型紙は使いません。
一日一点を目標にして、
百貨店で見つけた鮭の切り身や
干し柿、巨大なタコに、玉ねぎの断面。
暮らしの中にそっと佇む美しいもの、楽しそうなものを、
すべて作品に変えていきました。
心して見れば道ばたの草花でも
台所に転がっている野菜、枯れた花、一匹のさんまでも、
美しいと思うと美しく見えるのである。
その感動を私は布へ持っていっただけなのである。
彼女の作品を、一度ご覧になってみてください。
ハギレとハギレの間に、なんとも言えない温かさが見えますから。
宮脇綾子の世界5
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
仕事に対して忠実な人でした。
自然をよく見ること。
デッサンをしっかりすること。
よきものを見、感動すること。
美は真似るものではなく創り出すこと。
巧くやろうと思うな全力を尽くせ。
そして、日本古来の美しさや職人技を、後世に残すべきだと思いました。
藍染めの木綿、縞(しま)、絣(かすり)、更紗(さらさ)、縮緬。
その全ての繊維は、伊勢海老や唐辛子、アネモネの花に変わり、
ユーモラスな命が吹き込まれていきました。
宮脇綾子の世界6
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんの作品には、
必ず「あ」という文字が入っています。
これは、綾子の「あ」であり、
アップリケの「あ」でもあり、
何かに感動したときの「あ」という意味でもあるそうです。
魚の多くが受け口であること。
れんこんの穴の数はいつも9つであること。
そんな純粋な驚きが、「あ」という文字に込められています。
あなたも明日から、「あ」を探しに行きませんか。
宮脇綾子の世界7
アップリケの芸術家、宮脇綾子さんと夫の晴さんは、
一卵性夫婦と言われるほど仲良しだったそうです。
洋画家の晴さんは、綾子さんのアップリケに敬意を払っていたのでしょう。
亡くなる前、子どもたちにこんなことを言い残しました。
お母さんをいたわって、仕事を続けさせてくれるように頼む。
それから何年かして開催された、
創作アップリケ40周年の展覧会。
その図録の巻末には、綾子さんから晴さんへ、愛の言葉が記されていました。
あなたが病床でおっしゃいました。
「お前に会えてよかった」と。
私こそ、あなたと暮らした58年が、
私の楽しい一生でした。すばらしい人生でした。
ありがとうございました。合掌。
もう一度あなた、お逢いしたいです。
こんな美しいラブレターには、
なかなかお目にかかれません。