2012 年 9 月 のアーカイブ

蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家③石井桃子

『クマのプーさん』の翻訳や『ノンちゃん雲にのる』の
著作で知られる児童文学作家の石井桃子。
昭和33年、石井は自宅に子どものための図書館「かつら文庫」を開いた。

図書室にあてたのはいちばん日当たりがよく、出入りもしやすい1階の部屋。
庭にある大きな月桂樹を通ってすぐの場所にあった。

石井は子どもたちのために本を集め、
子どもたちもまた石井に本の感想を話すのを楽しみにしていたという。

子どもたちが実際にどんな本を喜び、
どんなふうに書いてあればおもしろいと思うのか、
それがわからなければ、いい本はつくれない。
石井桃子は著書の中でそう述べている。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送


kazutan3@YCC
作家が暮らした家④澁澤龍彦

1966年、作家澁澤龍彦は北鎌倉に家を建てた。
施工にあたって澁澤は建築家に次のような要望を伝えたという。

一、当世流行にのらざること。
二、材料、仕上げ、色彩などできるだけ制限し、華美にならざること。
三、人間空間、クラシック家具及び調度に耐えられるインテリア。
四、ただし食事や衛生のための諸設備は、最新の便利さを存すること。
五、総じて古いものへの郷愁に陥らず、そのよさを再発見し、
  さらに新しいものを正当に評価すること。

完成したのは、明治の洋館風の建物。
薄いミントグリーンの外壁が鎌倉の緑に美しく映えた。

この家で澁澤は亡くなるまでの21年間を過ごした。
澁澤の亡き後も、書斎や応接間は妻によって生前のまま保たれ、
本の並びから鉛筆削りの位置まで、何ひとつ変わっていないという。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家⑤種村季弘

ヨーロッパの幻想文学や異端文化を日本に紹介し、
1960年代のアングラ文化の担い手となったドイツ文学者種村季弘。

種村が終の棲家としたのは神奈川県湯河原の高台に建つ家。
書斎の窓からはみかん畑が見下ろせ、遠くには箱根の十国峠も望めた。

その家に集まるのは個性の強い作家や芸術家たち。
毎年正月には「種村宴会」と呼ばれる新年会が開かれ、
ドンチャン騒ぎが繰り広げられた。

そんな中、誰よりも大声で笑っていたのは家の主。
そんな種村を客人たちは「笑うドイツ文学者」と呼んでいた。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家⑥横山隆一

漫画『フクちゃん』の作者として知られる横山隆一の家は鎌倉にあった。

「民間の迎賓館」と呼ばれた横山の家には
さまざまな分野の著名人や文化人が集まった。
川端康成、岡本太郎、團伊玖磨、小津安二郎、手塚治虫・・・。

2001年に横山が亡くなった後、
その邸宅はカフェとギャラリーに生まれ変わった。

今では桜の木や藤棚、プールなど、
横山隆一の愛した庭を眺めながら、お茶を愉しむことができる。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送

作家が暮らした家⑦開高健

 ふつう私は小説家として暮らしている。
 ここ五年ほどは湘南海岸の茅ケ崎市である。
 海岸から三百メートルか四百メートルほどのところで
 ひっそり起居している。
 月曜日と木曜日の夕方になると二キロ離れたところにある
 水泳教室へ行くために外出するが、
 それ以外はほとんど家にたれこめたきりである。

作家開高健は1974年、東京杉並から湘南の茅ケ崎に居を移した。
58歳で亡くなるまでの15年間をそこで暮らした。

現在、開高健記念館として残るその家には
当時のままの書斎が保存されている。

壁に飾られているのは開高の愛した品々。
自らが釣り上げたキングサーモンやイトウの剥製。
何種類ものルアー。アラスカの地図。

書斎では作家の息遣いが今も聴こえる。

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五島のはなし 番外 教会イルミネーション

上のムービーは五島の教会のイルミネーションです。
クリスマス頃にはこんな感じになるみたいです。

中村直史くんが以前の記事で

 五島で結婚式をあげたい。
 そう思っているカップルが僕は好きです。
 ふたりで五島を旅したい。
 そう思っているカップルも僕は好きです。

と、書いてあったので教会をさがしてみたんです。
五島で結婚式といえばやっぱり教会かなあと思って。
HPをひとつ開いただけで31の教会が(厳密には29ですが)紹介されていました。
http://shinkamigoto.nagasaki-tabinet.com/junrei/

手遅れの人はしかたないですが
これからの人、ぜひ五島で結婚式をどうぞ(玉子)

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石橋涼子の育児絵日記はじまっています

ひっそりと育児日記ブログを書いていた石橋涼子さんに
Visionに書いてくれませんか、とお願いしてみました。
赤ちゃんを育てている人やこれから生む人の役に立てば素晴らしいし
赤ちゃんとは縁遠いコピーラーターにとっても
あわよくば役に立つ資料になればいいなと欲張りました。

やがてかわいいラベルのようなタグができて
目立ちやすくなりますが、
それまでは上のバーの「from Vision」でさがす、または
左サイドバーの文字タグから飛んでください(なかやま)

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0歳0カ月3日目の育児のはなし。

赤ちゃんが生まれる前の心配で多いのが、
「おっぱい、ちゃんと出るかな?」
だそうです(個人調べ)。
しかし私は母乳に関して、
まったく心配していませんでした。

 なぜなら・・・ 

私、巨乳になっていたから!

この世に生を受けて30年、
ずっと平らだった胸に、
な、なんと、谷間が出現したのです!わお。
こんなにでかいのだから、
母乳が出ないワケがない!
と、根拠の無い自信に充ち溢れていたのです。

 そして産後です。

 ぜんっぜん、出ないんだな。これが。

 あまりに出ないものだから、
すーさん(うちの息子の仮名です。釣りバカではない)も
おっぱいくわえさせると息苦しくて大泣きです。
赤ちゃんは産後数日で体重が少し減るのですが、
すーさんはちょっとやばいぞ、というギリギリまで
体重が落ちてしまいました。
生まれて最初にやったのが断食です。申し訳ない。

みかねた助産師さんが
「おっぱいマッサージしますねー」
とかわるがわる来てくださるのですが、
こ れ が 痛 い !!
マッサージではなく、乳搾りです。
お笑い芸人さんがよくやる「乳首に洗濯バサミ」より
過酷かもしれません。比べてませんが。

というわけで産後の入院生活5日間は、
ほぼ不眠不休で乳搾りでした。
手加減無用の助産師さんたちのおかげで、
退院までには少なめですが母乳が出るようになりました。

あの時の助産師さんたち、ありがとうございました。
みなさんの笑顔、忘れません!!
ホントにホントに痛かったです!!!

これから出産を迎える方がいらっしゃったら、
是非とも、早めのおっぱいマッサージをおススメします。
胸の谷間に浮かれてる場合じゃありませんよ!

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0歳0ヶ月の育児の話し

みなさんこんにちは。
薄組の石橋涼子です。

いきなり何の記事?
と驚かれていることと思います。

実は私、1歳1ヶ月の子ども(美少年)を
育てております。
美少年です。かわいいです。毎日はぐはぐしてます。

という話しを厚焼玉子さんに延々としていたところ、
なんと、Visionに連載の枠を設けて頂けたのです。
光栄です!
玉子さんが、親バカ話しを聞くのが
めんどくなっただけかもしれませんが。

いや、とにかくですね。
せっかく連載枠を頂いたのだから、
すでに親になった人にも、これから親になる人にも、
ちょっとだけ「あるある」「なるほど」「へえー」と
感じて頂けるお話しができたらいいなと思っています。

赤ちゃんの生態は日に日に変化するので、
記事タイトルは月齢にしようと思います。
この頃の赤ちゃんって、こうなのね、と。

ゆるやかに連載する親バカコラムになると思いますが、
何卒よろしくお願いいたします。

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石橋涼子 12年9月2日放送


Fernando Stankuns
果物のはなし 古賀稔と渥美清のバナナ

独特の節回しと愉快な口上で人々を楽しませる
バナナのたたき売りにプロがいることは、あまり知られていない。
そのひとり、古賀稔は、50年以上前から
九州・中国地方を渡り歩いてバナナのたたき売りをしている。

遠い昔のある日、古賀の前にひとりの男がふらりと現れた。
ちょいと教えてくれよ。
と声をかけてきたので、ちょいと教えてやったのだと言う。

その男は、フーテンの寅さんこと、若き日の渥美清だった。


new-york-city
果物のはなし 世界一有名なリンゴ

1700年代後半、
ひとりの若者がカナダの開拓地に移住した。
彼は、森で見つけた野性のリンゴの木を
庭に植えかえて育てることにした。

若者はやがて父になり祖父になり、
たった一本だったリンゴの木もていねいな接ぎ木によって
一族を増やしていった。
いつしかそのリンゴはアメリカでもっともポピュラーな品種になった。

そして1980年、
ひとりのエンジニアが開発中のマシンに
好物のリンゴの名前をつけた。

リンゴの名前は
最初の一本を育てた若者にちなんで
マッキントッシュという。
2012年の今、世界でもっとも有名なリンゴだ。

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