2012 年 9 月 のアーカイブ

熊埜御堂由香 12年9月2日放送


windyboy
果物のはなし 木村秋則のりんご

葉っぱが真っ白になるほどの農薬を散布してこそ、
真っ赤な美味しいりんごが収穫できる。
それがりんご農家の常識だった。

その常識を変えた男、木村秋則(きむらあきのり)。
青森のりんご農家の婿に入り、
農薬散布に疑問を抱いた。
そして試行錯誤をはじめる。
数年収穫はゼロ。
水道代も払えずメモを取るノートも買えない。
死のうと、ひとり入った山で、ふと気づいた。
一滴の農薬も使わない木々が、葉をつけ生きている。
畑の土を山の土と同じようにしよう。

それから木村は畑の雑草を刈ることをやめ
害虫をむやみに殺すことをやめた。
だんだんと畑は元気を取り戻し無農薬栽培を
はじめて9年後に畑いっぱいにりんごの花が咲いた。
畑には野山のような連鎖がおこっていた。
その実は奇跡のりんごとよばれ、評判になった。
木村は愉快そうに言う。

りんごの花は上を向いて咲くのな。
桜の花は下を向いて花見を
するひとのほうを見て咲くでしょ。
リンゴは人間を気にもしてないの。
ちょっと威張っているのな。

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小野麻利江 12年9月2日放送



果物のはなし 大楠道代の水密桃

実り、熟れて、やがて朽ちる。
果実の中には、「死」のイメージが
少なからず見え隠れする。

映画監督・鈴木清順の代表作
『ツィゴイネルワイゼン』は、
果実のそんな側面を、
描写の中に、みごとに取り入れている。

主演女優・大楠道代が、
劇中でむさぼるように桃に齧りつき、

水密桃は腐りかけているときがおいしいの

こう言い放つさまは狂気と幻想をはらみ、
今でも多くの映画ファンの心を、捕えてやまない。

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薄景子 12年9月2日放送



果物のはなし アレックスちゃんのレモネード

その女の子の名前は、アレックスちゃん。
1歳になる2日前に小児ガンが見つかり、
物心つく前からガンと闘ってきた女の子。

アレックスちゃんは、同じ小児ガンと戦う友だちと
ふたりでガンをやっつけようと約束します。
しかしその矢先、友だちの死に直面。
そして、彼女は決意するのです。

「ママ、私、レモネード屋さんやりたい」

売り上げを病院に寄付して、ガンの薬をつくって、
子どもたち、みーんなを元気にしたい。
そんな一心で、自宅の庭でレモネードスタンドをはじめます。

おつりを寄付する人、遠いところから駆け付けてくれる人。
アレックスちゃんの夢を支えたいと、
やがてスタンドはアメリカ全50州に広がり、
病院への寄付金は膨大な額に上りました。

8歳で天国に旅立つまで、ぎりぎりの力を振り絞って
みんなを元気にする夢を追い続けたアレックスちゃん。
そんな彼女が残した言葉。

「人生が、酸っぱいレモンをくれるなら、
 それで甘いレモネードをつくればいい」

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茂木彩海 12年9月2日放送



果物のはなし 角田光代と梨

忙しくなると、めっきり果物を食べなくなる。
バナナのように簡単に皮がむけるものはさておき、
りんごや梨など秋の果物は、冷やしたり、切ったり面倒だ。

梨好きの作家、角田光代は、果物は娯楽であると言いきる。
ごはんや野菜と違って食べなくともなんの支障もない。
だからこそ、果物には、毎日の余裕があらわれる。

角田は言う。
「そんなに駆けまわらず、あくせくせず、優雅に梨の皮を剥きたいものです。」


rocky
果物のなはし 吉本ばななとバナナ

新人文学賞選考委員の中村真一郎は、
なによりもその「途方もない筆名」に驚いたという。

吉本ばなな。

学生のころアルバイトをしていた喫茶店でバナナの花を見かけた彼女は、
その姿、形に一目ぼれ。
「あんなに大きくて変なものがこの世にあるなんて、それだけで嬉しい」

ばななのそんな感性に出会いたくて、
今日も誰かが、彼女の本を手に取るのだろう。

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小野麻利江 12年9月2日放送



果物のはなし 酒井順子のマンゴープリン

日本のサクランボだのみかんだのといった
生娘のような果物は、
束になってかかっても、
マンゴー姐さんのお色気には
太刀打ちできません、という感じ。

『負け犬の遠吠え』をはじめ、
切れ味鋭く軽妙な語り口に定評のある
エッセイスト・酒井順子。
彼女は人間のみならず、果物にも手厳しく、
マンゴーそのものに対して以上に、
マンゴープリンに手厳しい。

本当に美味しいマンゴープリンには、
生のマンゴーを食べる時の喜びを
さらに増幅させたような感動があると、彼女は言う。
そんなマンゴープリンの存在の希少さを
酒井はまた、独特の表現で言い回す。

美味しいマンゴープリンが少ないのは、
本当に美しい大人の女性が少ないのと、同じこと。

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佐藤延夫 12年9月1日放送


ドメーヌ・ピータン
宮脇綾子の世界1

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
ごく平凡な主婦でした。

夫は洋画家で、子どもが3人。
毎日、家の雑用に追われていると、
妻、あるいは母という立場で時間が流れてしまうことに
違和感を覚えたそうです。

そして第二次大戦が終わったとき、
自分の中に、ある気持ちが芽生えました。

  今まで防空壕の中に入ったり、出たりした時間が、
  そこにぽっかり浮いた。
  ああそうだ、この時間で何かしてやろうと思ったのだ。

戦争に負けたショックなんて
微塵も感じさせないほどの強さをお持ちでした。



宮脇綾子の世界2

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
自由に、思うままに、作品をつくりました。

彼女のアップリケは、布のコラージュ。
モデルを観察し、大まかな形をスケッチして
それを布に写し取り、配色や布の柄を考える。

素材は、ありとあらゆるハギレのほか、
古着に布団の切れ端、コーヒーフィルターや畳縁まで何でも利用しました。

モチーフは、魚、果物、野菜、庭に咲く花々。
目に飛び込むものなんでも。全て。

  工夫し、考え、そしてそれが出来上がったときの喜び、
  この気持ちは作ってみた者でなくては分からない感激です。

綾子さんは、自分だけの芸術を手に入れました。



宮脇綾子の世界3

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
少女時代に、裕福と貧しさの両方を味わったそうです。
小学生のとき親の家業が傾き始めると、
何人もいたお手伝いさんや書生がいなくなり、
女学校の道も諦めました。

  貧乏は悲しい。
  人にも言えず、憶い出したくもない。
  死んでしまいたいと思ったことも幾度かあった。

そのうち、ひとつの小さな縁から、
ある青年との文通が始まりました。
それはのちに夫婦という深い絆で結ばれる、
洋画家の宮脇晴(はる)さんでした。

運命は綾子さんに、やっと微笑んでくれました。



宮脇綾子の世界4

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
なかなか頑固な人でした。

アップリケを始めるときも、
「家でできること」「人がまだ手がけていないこと」
という取り決めを自分の中でつくったそうです。

アップリケに型紙は使いません。
一日一点を目標にして、
百貨店で見つけた鮭の切り身や
干し柿、巨大なタコに、玉ねぎの断面。
暮らしの中にそっと佇む美しいもの、楽しそうなものを、
すべて作品に変えていきました。

  心して見れば道ばたの草花でも
  台所に転がっている野菜、枯れた花、一匹のさんまでも、
  美しいと思うと美しく見えるのである。
  その感動を私は布へ持っていっただけなのである。

彼女の作品を、一度ご覧になってみてください。
ハギレとハギレの間に、なんとも言えない温かさが見えますから。



宮脇綾子の世界5

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんは
仕事に対して忠実な人でした。

自然をよく見ること。

デッサンをしっかりすること。

よきものを見、感動すること。

美は真似るものではなく創り出すこと。

巧くやろうと思うな全力を尽くせ。

そして、日本古来の美しさや職人技を、後世に残すべきだと思いました。

藍染めの木綿、縞(しま)、絣(かすり)、更紗(さらさ)、縮緬。
その全ての繊維は、伊勢海老や唐辛子、アネモネの花に変わり、
ユーモラスな命が吹き込まれていきました。



宮脇綾子の世界6

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんの作品には、
必ず「あ」という文字が入っています。

これは、綾子の「あ」であり、
アップリケの「あ」でもあり、
何かに感動したときの「あ」という意味でもあるそうです。

魚の多くが受け口であること。
れんこんの穴の数はいつも9つであること。
そんな純粋な驚きが、「あ」という文字に込められています。

あなたも明日から、「あ」を探しに行きませんか。



宮脇綾子の世界7

アップリケの芸術家、宮脇綾子さんと夫の晴さんは、
一卵性夫婦と言われるほど仲良しだったそうです。

洋画家の晴さんは、綾子さんのアップリケに敬意を払っていたのでしょう。
亡くなる前、子どもたちにこんなことを言い残しました。

  お母さんをいたわって、仕事を続けさせてくれるように頼む。

それから何年かして開催された、
創作アップリケ40周年の展覧会。
その図録の巻末には、綾子さんから晴さんへ、愛の言葉が記されていました。

  あなたが病床でおっしゃいました。
  「お前に会えてよかった」と。
  私こそ、あなたと暮らした58年が、
  私の楽しい一生でした。すばらしい人生でした。
  ありがとうございました。合掌。
  もう一度あなた、お逢いしたいです。

こんな美しいラブレターには、
なかなかお目にかかれません。

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