2012 年 11 月 のアーカイブ

佐藤理人 12年11月18日放送


johanoomen
007シリーズ50周年③ ジョージ・レーゼンビー

世界最長の映画シリーズ「007」。
その最大のピンチは第6作「女王陛下の007」で訪れた。

マンネリに飽きたとショーン・コネリーが役を降りたのだ。

二代目ジェームズ・ボンドは、
オーストラリア出身のモデル、ジョージ・レーゼンビー。
演技の経験はなかったが、
軍で格闘技の教官だった経験を買われての起用だった。

スター気取りになった彼はギャラの上乗せを要求、
断られるとたった一作で降板した。後に彼は、

 若さゆえの未熟さ、傲慢さが自分にはあった。
 あの時私は、輝かしいチャンスと
 失われていくチャンスを同時に目の当たりにした。

と語っている。

数々のトラブルにも関わらず、
「女王陛下の007」はシリーズ屈指の名作になった。

理由はボンドが初めて恋に落ち結婚する
素敵なラブストーリーであること。

そして最高に悲しくて
切ないエンディングを迎える作品であるからだ。

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佐藤理人 12年11月18日放送



007シリーズ50周年④ ロジャー・ムーア

ジェームズ・ボンドのピンチを救ったのは、
別のジェームズ・ボンドだった。

3代目007、ロジャー・ムーアは、
持ち前のユーモラスな演技で前任者のゴタゴタを一掃。
第8作「死ぬのは奴らだ」以降、
歴代最多の7作品でボンドを演じ、
シリーズの長寿化に貢献した。

 ユーモアのないサディスティックな
 バイオレンス映画なんて考えたくもない代物さ。

荒唐無稽なキャラクターを茶化すような彼の演技は、
007を暴力的なアクション映画から
家族そろって楽しめる娯楽大作に変えた。

コミカルなボンドが人気を博した理由。

それは国際社会で次第に発言力を失っていく、
イギリスの悲哀の裏返しであった。

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佐藤理人 12年11月18日放送



007シリーズ50周年⑤ ティモシー・ダルトン

最高の007は、最低の007でもあった。

4代目ジェームズ・ボンド、ティモシー・ダルトン。
彼はシェイクスピア俳優らしいシリアスさでこの役を演じた。

故ダイアナ妃に

 最もリアルなジェームズ・ボンド

と評された第15作「リビング・デイライツ」は
それまでで最高のヒット作となった。

ところが次作「消されたライセンス」では
暴力路線に走りすぎ、最低売上を記録。
ダルトンはたった二作で降板してしまう。

さすがのジェームズ・ボンドも、
売上には勝てなかったらしい。

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佐藤理人 12年11月18日放送


Rita Molnár
007シリーズ50周年⑥ ピアース・ブロスナン

ベルリンの壁が崩壊し、ソ連は解体。
かつての敵が味方になった90年代。

冷戦後の世界に、007の居場所を見つけること。
それが5代目ジェームズ・ボンド、
ピアース・ブロスナンの使命だった。

今までの4人をミックスしたキャラクターと
ソ連崩壊後の権力腐敗を描いたストーリーで、
第17作「ゴールデン・アイ」は
最高収益を大幅に更新。

その後も巨大メディア王や北朝鮮など、
時代とシンクロした敵を設定し、大ヒットを連発する。

007は見事、超娯楽大作として職場復帰を果たした。

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佐藤理人 12年11月18日放送


Caroline Bonarde
007シリーズ50周年⑦ ダニエル・クレイグ

かつてロジャー・ムーアは
ジェームズ・ボンド役を降りる理由を聞かれて

 これ以上やったら殺されてしまうから

と答えた。6代目ボンド、ダニエル・クレイグの意見は違う。

 ケガなんて楽しみの一つさ

と、全身傷だらけになりながら、
ほぼ全てのスタントを自らこなしている。

金髪碧眼という従来のボンドとはかけ離れた容姿に、
当初はバッシングが続出。
作品のボイコット運動にまで発展したにも関わらず、
21作目「カジノ・ロワイヤル」は
007シリーズ史上最高の収益を記録した。

クール一辺倒でなく、あえて感情を前面に押し出した演技も

 ショーン・コネリーを超えた!

と絶賛された上、コネリー本人からも
ベストなキャスティングと評された。

クレイグの目下最大の悩みは、有名になりすぎて、
バーで倒れるまで酔っぱらえないことだと言う。

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佐藤理人 12年11月18日放送



007シリーズ50周年⑧ ジェームズ・ボンド

恐らくそれは、
イギリスの意地だったのだと思う。

世界最長の映画シリーズ「007」。
主人公ジェームズ・ボンドは
祖国が病める時でも常に

 イギリス紳士かくあるべし

という理想であり続けた。

原作によれば彼は
様々な生活習慣病を抱えており、
医者から長生きできないと忠告されている。

それから50年。
今日もボンドは世界の平和を守り続けている。

ステアせず、シェイクした
ウォッカマティーニを傾けながら。

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大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
叔父さんのレストラン

ドイツ、表現主義の画家、
パウル・クレー。
美しい色彩とフォルム、
リズムとメロディを感じる絵。
日本でも広く愛されている画家である。

クレーは自分を「奇怪なもの好き」と称する。
その始まりは、叔父フリックのレストランの
大理石のテーブルにあるという。

 その表面には化石の断面が折り重なっていた。
 この線の迷宮からひとの姿のグロテスク模様を
 見つけ出し、鉛筆でなぞっていた。

叔父のレストランはクレーの画家の原点でもあり、
食への興味の原点でもあった。

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大友美有紀 12年11月17日放送


Francesco Gola
パウル・クレー「食卓の言葉」
フルッティ・ディ・マーレ

スイスで育った画家クレーは、海を見たことがなかった。
新鮮でおいしい魚介類を食べたこともなかった。
21才の時、ミュンヘンの画塾の友人と、イタリアへ旅立つ。
ヨーロッパの古典芸術を体感するためだ。
この時、彼は海の幸の数々も体感する。
婚約者のリリーにも、その感動を書き送っている。

 フルッティ・ディ・マーレは、ジェノヴァで食べただけ。
 赤みを帯びたタコのカタチをしたもので、油とお酢で
 味をつけた、とてもデリケートな味のするもの、
 船上でも食べましたが期待は裏切られませんでした。

 
フルッティ・ディ・マーレは、イタリアでは海の幸全般をさす。
クレーは料理名と勘違いしたのだろう。
しかしすっかり魅了された様子は伝わってくる。
この旅のあと、クレーの日記には
食事についての記述がたびたび登場する。

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大友美有紀 12年11月17日放送



パウル・クレー「食卓の言葉」
主夫クレー

26歳の時、画家クレーは、3歳年上のピアニスト、
リリーと結婚する。クレーはまだ無名だ。
リリーのピアノ教師としての収入がすべて。
食事の支度はクレーの役割、
息子が生まれてからは、育児も引き受ける。
創作の時間は、極端に少なくなる。
昼間は台所で家事をし、夜通し絵を描く。
モチーフは、数日前にバルコニーから見た光景。
それでもクレーが料理する姿は、
息子フェリックスにとって、とても楽しみだった。

 父は実に軽快で、まるで絵を描いたり
 音楽を奏でたりしているかのように料理をしていた。
 皿に盛られた5、6品の料理は見事なできばえで、
 いつも素晴らしい味だった。

14年に渡る苦悩の時代、クレーは小さな台所で
独自の世界をつくりあげていった。

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大友美有紀 12年11月17日放送


Kike’s
パウル・クレー「食卓の言葉」
チュニジア

無名時代もクレーは、線画を描き続け出版社に売り込んでいた。
やがて、カンディンスキーと出会い
彼の主催する「青騎士」グループに参加する。
画家としての可能性が見えてきた34歳の時、
2人の友人とチュニジアに旅をする。
それまでモノクロームの絵を描いていたクレーが
色彩を手に入れたとされる旅だ。

 色彩は私を永遠に捉えた。
 私にはそれがわかる。
 この至福のときが意味するのは、
 私と色彩がひとつだということ。
 私が、画家だということ。

クレーはチュニジアで色彩に目覚めた。それはほんとうだろう。
けれど、この有名な言葉は、今では後年、日記に書き加えられたとされている。
クレーには、この旅でもう一つの出会いがあった。
それは、帰りの船のディナーだ。

 この夕食については本が一冊書けそうだ。
 スパゲティがとてもおいしかったので、
 ついしっかりと食べてしまった。
 モミの葉で香りをつけた猪に果物の煮込みが出たあたりから、
 胃が重くなってきた。それでも勝負を続けた。

日記にはまだまだ料理の描写が続いていく。
当時のままの、クレーの感動がそこにある。

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