2013 年 2 月 のアーカイブ

澁江俊一 13年2月9日放送



チョコと映画監督

「ギルバート・グレイプ」「サイダーハウス・ルール」
俳優の本当の魅力を惹きだす演出で知られる
映画監督ラッセ・ハルストレム。

斬新なカメラワークや
予想を裏切るストーリーではなく
人の心が動く瞬間を追いかける映画づくり。
その人生観は、彼の映画に登場する
ある飲み物にとてもよく現れている。

映画の名は「ショコラ」。
昔々フランスのとある村に
まだ見ぬお菓子「チョコレート」を広めるため
やってきた女性ヴィアンヌがつくる
唐辛子入りホットチョコレート。
ピリッとした刺激と、とろける甘さの絶妙なハーモニーは
かたくなな村人の心を、たちまち溶かしてしまう。

人生は甘いだけじゃない。だからいい。
それがラッセ・ハルストレムが思う幸福なのだ、きっと。

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澁江俊一 13年2月9日放送



チョコと遊女

記録に残る日本最初のチョコレートは江戸時代、
寛政九年、西暦なら1797年。
長崎は丸山の遊女が
オランダ商人からもらった品物の目録に
「しょくらあと六つ」という文字がある。
これが実はチョコレートなのだ。

しょくらあと。
これはこれで、素敵な響き。

同じ寛政九年に書かれた
『長崎見聞録』によれば、
「しょくらあと」は
お湯に削って入れ、
卵と砂糖を加え、泡立てて飲む。
当時は“薬”だったらしい。

長崎の遊女は、
どんな病をわずらっていたのか。
もしかしたら、恋、かもしれない。

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松岡康 13年2月9日放送



チョコと裁判

世界でもっとも有名な
チョコレートケーキ。
それは、ザッハトルテだ。

1832年。わずか16歳の
フランツ・ザッハがつくるケーキが
ウィーンじゅうの話題になった。
フランツの息子エドヴァルドは勢いに乗り
「ホテル・ザッハ」を開業。
ザッハトルテはそこでも大人気だった。

そして世界恐慌。
「ホテル・ザッハ」も財政難に陥る。
この危機を救ったのはウィーン王室御用達ケーキ店
「デメル」の女経営者アンナだった。
彼女が援助の条件にしたのは、ザッハトルテの販売権。
当時のホテルの経営者エドヴァルド・ザッハーと
アンナは恋仲だとも噂された。

二人の死後、ホテル・ザッハはデメルに対し
ザッハトルテの名称の使用を禁じる長い裁判を起こした。

1962年、長期にわたった裁判にやっと判決が下され
どちらもザッハトルテを生産販売できることになった。
この裁判を、vision人は「甘い戦争」と呼ぶ。

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礒部建多 13年2月9日放送


Peter from Perth
チョコと戦争

1965年の日本といえば
東京オリンピックを経て経済成長のまっただなか。
子供たちの目はテレビから流れる宇宙もののアニメに釘付けだった。

そんな1965年に出版されたのが
児童文学の傑作「チョコレート戦争」

舞台は、ある地方都市。
高級洋菓子店に飾られたチョコレートの城は
子供たちのあこがれだった。
ある日、そのショウウインドウのガラスが砕け散る。
たまたまそこにいた2人の少年は
ガラスを割った犯人にされてしまう。
そんな大人たちへ抗議するため
チョコレートの城を盗み出す計画がはじまる。

タイムマシンも空を飛ぶ乗り物も、光線銃も出て来ない。
登場するのは普通の子供と普通のオトナ。
でも、ドキドキするような
エンターテインメントになっている。

「童話だって、大人が読んでも
おもしろくなくては駄目であると思った」
と語るのは著者の大石真。
当時読者だった子供たちは今、
その子供たちに、この本を手渡している。

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奥村文乃 13年2月9日放送



チョコと夢

チョコレートが大好きな子供だった。
作家ロアルド・ダール。

彼が通っていた学校のそばには、
イギリス王室御用達のお菓子メーカー、
キャドバリーの工場があって
生徒たちは新製品のチョコレートを試食する楽しみがあった。

チョコレート工場の発明室で働きたい。
ロアルドのそんな夢から、
代表作『チョコレート工場の秘密』は生まれた。
彼は作品の中で、夢を実現させたのである。

幼いころみた夢は、すべて叶うなんてことはない。
でも、大人になったとき
その夢は間違いなく
自分自身を動かす原動力になる。

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奥村文乃 13年2月9日放送



チョコと告白

日本におけるバレンタインデーのはじまりは、1958年。
2月12日から14日にかけての3日間、
伊勢丹新宿本店に「バレンタインデー」にちなんだ
チョコレートがならべられた。
その年の売り上げは、板チョコ3枚とカード2枚。
たったの170円だった。

その翌年、1959年のバレンタインデー。
メリーチョコレートカンパニー2代目社長の原邦生は、
女性誌にこんな広告コピーを書いた。
「一年に一度、女性から愛を打ち明けていい日。」
当時の女性たちは、どれだけこの言葉に
胸をときめかせたことだろう。

いまや、国民的行事になったバレンタインデー。
このシーズンには国内で生産されるのチョコレートの
25%が売れるそうだ。
甘くて苦いチョコレートに託して、
あなたは誰に想いを贈りますか。

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茂木彩海 13年2月3日放送


noriqnub
ユーモアの話 黒柳徹子のユーモア

よこしまで腹黒の奴は、善良な縞馬を見習うがよい。
なぜなら縞馬は腹白で、たてしま、なのだから。

自身の著書、『トットの動物劇場』の中で
ユーモアたっぷりに動物たちを観察する黒柳徹子。
その目は鋭くて斬新。

「もう秋だよ!」と喋る九官鳥に感動したり
キリンの首に掛かる血圧の心配をしたりと、忙しい。

そんな彼女の言葉。

 変わりたければ、

 「私、これじゃなきゃダメなの」と決め込んだりしないことが大切ね。
 
いくつになっても変われる可能性があると思うと、
 
ワクワクするじゃない?

ユーモアのある人。それは
世の中を自由な角度で見ることができる人、
とも言える。

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石橋涼子 13年2月3日放送



ユーモアの話 ニーチェの笑い

人間だけが涙を流す生き物である。
とはよく言われるが、
他にも人間だけが持つ特徴があるらしい。

ドイツの哲学者、ニーチェ曰く、

 人間のみが、この世で苦しんでいるので
 笑いを発明せざるを得なかった。

なるほど。
秀逸なユーモアに触れて、涙が出るまで笑って。
それが人間の特権。

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石橋涼子 13年2月3日放送



ユーモアの話 ガンジーとユーモア

 もし、私にユーモアがなければ、
 これほど長く苦しい戦いには
 耐えられなかったでしょう。

これは、インド独立の父と呼ばれている
ガンジーの言葉だ。

生涯、暴力を否定し続けたガンジーは、
厳格で真面目な印象を抱かれがちだ。

しかし、弟子たちによると
ガンジーはにこにことよく笑い、よくしゃべる、
人懐こい人物だったと言う。

思想も目標も大事。
だがやはり、
人は、楽しそうな人のもとに集まる。

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熊埜御堂由香 13年2月3日放送


riacale
ユーモアの話 ミヤコ蝶々と南都雄二

芸人・ミヤコ蝶々。
昭和50年まで20年間放送された
長寿番組『夫婦善哉』の司会で名をはせた。

一般の夫婦をゲストに
蝶々の弟子だった南都雄二(なんとゆうじ)と、
漫才のようにエピソードをひきだしていった。

ある回、実は、司会の2人が夫婦であることを
番組内で明かすと、まるで結婚式のように
観客から祝福の歓声が飛んだ。

しかし番組開始から4年、
雄二の浮気が発覚し蝶々は離婚を決意する。
今度は離婚を隠し、おしどり夫婦を演じて司会を続けた。

数年後、思い切って離婚を明かすと、蝶々に同情があつまった。
口達者な蝶々さんと、浮気者でダメな雄さんという
新しい芸風でさらに司会を続けていく。

蝶々は雄二が48歳でなくなるまで家族以上に親身に世話をし、
最後には『夫婦善哉』の司会をひとりでつとめあげた。
男と女のおかしさを伝え続けた番組だった。

蝶々がよくサインに記していたフレーズがある。

 おもろうて、やがて哀し。

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