2013 年 3 月 のアーカイブ

松岡 康 13年3月24日放送


suttonhoo
別れと家

緑の林の中に天井と床が浮かんでいる。
極限まで要素をそぎ落とした軽さ。
その家の名は、ファンズワース邸。
近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエによって、
1951年に設計された週末別荘だ。

設計を依頼したのは
女性外科医エディス・ファンズワース。
当時ミースとエディスは
施主と設計者との関係を越え、男女の愛を築いていた。

ファンズワース邸の設計が進むにつれて、
ミースは作品としての「家」に執着し、
のめり込んでいく。
そこに住むはずのエディスを、顧みることもなく。

当初の予算を大幅に上回った施工費を巡って、
エディスは訴訟を起こす。

ファンズワース邸の設計が終わると同時に、
二人は別れた。

二人の絆が消えた後に残ったのは、
世界中から愛される、近代建築を代表する作品だった。

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礒部建多 13年3月24日放送



別れと狼

明治38年、奈良県の小さな村で、
ニホンオオカミの最後の一匹が確認された。

アメリカ人青年マルコム・アンダーソンは
最後のニホンオオカミを大英博物館へ運んだ人物である。
彼は東南アジア小型哺乳類収集団の一員として、
その村を訪れていた。

地元の猟師が手にしていたニホンオオカミの死骸を
マルコムは8円50銭で買おうとした。
猟師たちは、交渉の末、死骸を売り渡した。
それが日本での最後の一匹になるとは知らずに。

奈良県の東吉野村には、いま
等身大の日本オオカミのブロンズ像が立っている。

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奥村広乃 13年3月24日放送



別れと時間

1月はいってしまう。
2月は逃げてしまう。
3月はさってしまう。
この3カ月は、1年の中でも時間のたつのが早い。

1日は24時間。1分は60秒。
延びたり縮んだりするわけでもないのに不思議だ。

いっぽうで、とても長く感じる「時間」もある。
六歌仙でしられる僧正遍昭の歌。

今来むと いひて別れし 朝より (いまこむと いいてわかれし あしたより)
思ひくらしの 音をのみぞ泣く (おもいくらしの ねをのみぞなく)

「またすぐに来るよ」と言って去った人を思い
泣き暮らす時間の長さは
1000年後のいまも変わらない。

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澁江俊一 13年3月24日放送



別れと砂漠

アメリカ美術界で
はじめて脚光を浴びた女性
ジョージア・オキーフ。
しかし大恐慌の時代。
ルールに縛られず、自由な絵を描くオキーフに、
世の中は寛容ではなかった。

華やかさと誤解に満ちた
ニューヨークの生活に別れを告げ
彼女が暮らし始めた土地は
ニューメキシコ州サンタフェ。

砂漠と荒地。そして崖。
どこまでも青い空と焼けつく陽射し。
人々にとって何もないその場所には、
彼女にとって、すべてがあった。

美しい花の絵を好んだオキーフは
砂漠に落ちている動物の頭蓋骨も
繰り返しモチーフにした。

花と、骨。
彼女はまるで同じものみたいに
どちらも生き生きと描くのだった。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送

黒澤明と七人の侍①

1990年3月26日、映画界に対する長年の功績を讃え、
黒澤明にアカデミー名誉賞が贈られた。

カリフォルニアの会場には日本からの中継映像も映され、
ふたつの「おめでとう」のメッセージが届けられた。

ひとつはアカデミー名誉賞に。もうひとつは誕生日に。
黒澤はその3日前の3月23日に
80歳の誕生日を迎えたばかりだった。

セレモニーの最後、黒澤はスピーチをこう切り出した。

わたしがこの賞に値するかどうか少し心配です。
なぜなら、私はまだ映画がわかっていない。

そんな巨匠の言葉に、会場はあたたかな拍手に包まれた。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍②

映画「七人の侍」。
黒澤は本物の時代劇をつくるという信念のもと、
徹底的にリアリズムを追求した。
撮影場所もそのひとつだった。

戦国時代の農村にふさわしい場所を探して
黒澤は3カ月に渡って全国を駆け巡り、
最終的に伊豆を撮影場所に定めた。

さらに、村の東は堀切、西は御殿場、
北の森は箱根、中心部は東京のスタジオと、
村を複数の場所に分けて、別々に撮影をおこなった。

わずか数十戸の小さな農村を描くために
そこまで労力をかける。その執念が黒澤である。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍③

映画「七人の侍」。
農民を演じたのはすべて、名もないエキストラたちだった。

黒澤は農民ひとりひとりの名前、年齢、家族構成を決め、
どんな家に住んでいるか、間取りまで細かく設定した。
そして撮影中はつねに家族単位で行動するように指示した。

やがて彼らは本物の家族同様に振る舞うようになった。
演技ではない生身の人間の姿が
「七人の侍」に限りないリアリティをもたらした。

黒澤は語る。

 あまり誰にも言われませんが、
 あの作品の功労者は村の連中なんです。
 全員が自然と村人の気持ちになっていましたからね。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍④

映画「七人の侍」。
撮影開始から7カ月後、撮影中止の命令が
映画会社の上層部から下された。

撮影は当初の予定から5カ月も遅れ、
その分予算は大きく膨れ上がっていた。

会社に詰め寄られた黒澤は
それまでに撮影したフィルムをつなぎ、
試写をおこなうことになった。

試写が始まると間もなく
上層部たちはスクリーンに引き込まれた。
そして物語がクライマックスを迎えようとした場面で、
突然フィルムが途切れた。

「続きはどうした」。
騒然となる上層部に対して、黒澤は答えた。

 ここから先はひとつも撮ってません。

撮影中止の命令は間もなく取り下げられ、
撮影は再開されることになった。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑤

映画「七人の侍」。
美術助手を務めた村木与四郎は黒澤明から
当時の家の生活感を完全に表現することを命じられた。

村木たち大道具係は古い家屋の資料を集め、
研究を重ねた結果、
「焼き板」という加工法を考案した。

板の表面を焼き、炭を鉄のブラシでこすって落とす。
そこに泥絵具を塗り、ワックスを書けたのちに
さらにタワシで磨く。こうして戦国時代の家そのままの、
古びた色合いと質感が生まれた。

ないものはつくるしかない。
そんな創造の魂が、黒澤映画の細部にまで宿っている。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑥

映画「七人の侍」。
そのクライマックス、侍たちと野武士との決闘シーン。

撮影がおこなわれたのは極寒の2月。
連日の降雪でオープンセットは一面雪に覆われていた。

雪をどけても地面のぬかるみは隠せない。
黒澤は大胆に発想を変えた。逆に大雨を降らせ、
決闘を雨中のシーンにしたのである。

雨と泥にまみれる戦場が予想外のアングルで映し出される
壮大なクライマックス。
映画史上屈指の名場面はそのようにして生まれた。

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