2013 年 3 月 のアーカイブ

蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍⑦

映画「七人の侍」。
その台本をつくるために黒澤明は
脚本家の小国英雄、橋本忍とともに
熱海の旅館に籠った。

農民に雇われた侍たちが、団結して野武士と戦う
という筋書きはできたが、そこにはひとつ問題があった。
当時の厳しい身分制度では、農民と侍がひとつになる
などということはありえなかった。
台本づくりは暗礁に乗り上げ、
一行も進まない状態が丸三日続いた。

4日目の朝、小国英雄にアイデアが浮かんだ。
2つの身分の橋渡しをする役として、
農民でも侍でもない人間をつくればいいのではないか。

こうして、姿は侍だがじつは農民の出の、
菊千代というキャラクターができあがった。

映画では三船敏郎が演じた、あの破天荒な人物も、
苦悩の末に生まれたものである。

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0歳8ヵ月の育児の話し。

0歳8ヵ月。
と言えばちょうど一年前。
春です!入園です!
すーさん(美少年でぶ9キロ)は運よく
区立の保育園に入ることができました。

0歳クラスとはいえ、受け入れ対象は
生後8ヵ月以上の赤ちゃん。
クラスメイトは全員8ヵ月~12ヵ月です。
つまりすーさんは0歳クラスの中では
最年少の部類。

この数カ月の差が大きいのです!

なにしろデブなので(個人的な意見です)
まだハイハイもできないすーさんです。
8ヵ月にして、ほふく前進しかできません。
ずりずり。
それでも感動しましたよおかあさんは。

しかし!
12ヵ月の赤子は、歩くのです!(個人差があります)
よちよち歩くのですよ!!
もうお前ら赤ちゃんじゃないなっ!

ていうか、
うちの子、まだハイハイもできてないじゃん!!!

なんというんですかね。
比較対象が登場した途端に襲いかかる
「うちの子、もしかして・・・」
という不安の嵐。

クラスで二番目に足が遅かったという
学生時代の記憶がフラッシュバック。
リレーで5人にごぼう抜きされた苦い思い出・・・。
ハードルが無いところでなぜか転ぶ私・・・。
あー辛かったなー運動会。
あと、足が速いヤツがモテるって、埼玉はやっぱり田舎だよなー。
集団生活における仁義なき競争(?)に
早くもへこたれる母。

と思ったら、入園直後にハイハイをマスターしました。
これが集団生活における学習効果かっ!
悔しさをバネにしたの?
それとも他人の技を盗んだの?
どっちにしても天才?
すーさん天才なの?!
(引き続き、うちの子天才かも症候群です)

なにはともあれ、
親の不安をよそに、子どもは成長するんですね。
ありがたし。
そして反省。

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古居利康 13年3月17日放送


maneki-neko
円空と木喰 1

江戸時代、作仏聖(さぶつひじり)と
呼ばれる僧侶がいた。寺に定住せず、
日本各地を転々と旅して廻り、
行く先々で請われて仏像をつくり、
寺に残して去っていった。

災害や疫病、天候不順による不作。
苦しみも悲しみも、生も死も、
運命として受け入れるほかなかった
当時の庶民。ただ黙してひたすら
祈る人々のそばに、木彫りの仏像はあった。

円空と木喰。

後世にその名を最も知られた
ふたりの作仏聖。彼らが残した仏像の多くは、
いまも各地の寺にある、現役の仏像だ。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 2

円空は、
生涯に12万体の仏像をつくった、
という記録が残っている。

現在、円空作と確認されているのは、
そのうち、約5000体にすぎない。

一本の鉈で樹を伐り出し、
何種類かの鑿で大胆に削っていく。
削ったまま、刃物の荒々しい痕跡を
残したままのその仏像は、
悟りと言うには激しく強烈な個性を
主張している。

仏像は、さいしょから木の中にいる。
円空は鉈をふるって、木の中にいる仏を
取り出しているだけ。

円空がつくった円空仏を見ていると、
そんな気さえしてくる。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 3

自由奔放で荒々しい
木彫りの仏像を数多く残した僧、円空。

1632年、美濃国に生まれた円空は、
19歳とき、長良川の氾濫で母を亡くす。
23歳のとき美濃を出て、
隣国近江国の伊吹山太平寺に入る。
険しい山の上にある修験道の寺で
厳しい修行を積んだ。
諸国へ旅に出たのは、30歳を過ぎたころ。
旅先で木彫りの仏像を残した。

円空が彫った仏像は、一木造の丸彫り。
本体から台座まですべて一本の木だけで彫って、
彩色もしなければ漆や金箔も張らない。
節も曲がりも生かし、もとの木が宿していた
表情に逆らわなかった。

栃木県清龍寺にある不動明王像。
一本の木の下に仏の姿を彫り、
上の方はほとんど手を加えず、
荒々しい木肌を不動明王の背負う炎に
見立てている。

路傍で立ち枯れた木を伐ったり、
どこにでも落ちているような木の切れ端を
無造作に拾っては鉈や鑿をふるい、
ごく短時間のあいだに何体も仕上げていった。

円空が彫った仏像、円空仏。
木の切れ端でつくったから木っ端仏、
と呼ばれることもある。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 4

諸国を旅して廻り、
訪れる先々で木彫りの仏像を残した
作仏聖、木喰。

1718年、甲斐国古関村の
名主の家に生まれたが、14歳のとき家出。
22歳のとき、相模国の大山不動尊で出家。

古くから真言密教の修験道場として栄え、
江戸の庶民から「大山詣り」の
信仰をあつめてきた寺。

20年、修行に努め、「木喰」を名乗る。
諸国修行の旅に出るのは、それからまた
10年の歳月を経た、56歳のとき。

このときまで、木喰は、
仏像など彫ったこともなかった。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 5

修験道の修行のひとつに、
「穀断ち」という行がある。

穀物を食べることを禁じる行で、
米・麦・粟・稗・豆など五穀と呼ばれる
作物は人間の穢れにまみれた
俗世のものと見なし、それを断つことで
身を清廉にしようとした。

穀物を食べずに木の実や草の根のみを
食べたので、穀断ちの行は
別名「木喰戒」とも呼ばれた。
文字どおり、「木を喰らう」。

木彫りの仏像で知られる「木喰」も
この行を積み、その名も木喰とした。

木喰は、1778年、諸国修行で廻った
蝦夷国の松前で円空が残した円空仏に出会う。
それがきっかけで仏像をつくりはじめた、
と唱える研究者がいる。

真偽のほどは定かではないが、
木喰が60歳を過ぎてから仏像造りを
はじめたのは事実だ。

円空仏が直線的で荒々しいとすれば、
木喰仏は曲線的で丸みを帯び、おだやか。

そして、木喰仏は、笑っている。
円空仏も微かに神秘的に微笑んでいるが、
木喰仏は、破顔一笑、天真爛漫に
大笑いしている。

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古居利康 13年3月17日放送



円空と木喰 6

木彫りの仏像を
日本各地に数多く残した作仏聖、木喰。

50を過ぎて旅に出て、
60を過ぎて仏像づくりを始め、
90過ぎまで生き、最後まで旅の途上にあった。

その旅の行程は日本全国に及び、
円空が行かなかった中国、四国、九州にも
数多くの仏像を残した。

木喰がつくった仏像には直線がない。
すべてがまるみを帯びてやさしい。

鉈のひと振りで木を伐り、
鑿の彫り跡も生々しいままの円空仏に対し、
木喰は、木を少しずつ削り、
木を撫でるように、磨くように、
仏に近づいていった。

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古居利康 13年3月17日放送


Bjorn Hermans
円空と木喰 7

木喰は、
広葉樹を好んで使ったという。
やわらかくきめの細かい
広葉樹の木肌が、
曲線だけでつくられる作風に
生かされている。

円空は、
建築材の切れ端、朽ち木、
果ては流木に至るまで、
仏像の材料を選ばなかったが、
どちらかと言えば針葉樹を好んだ。
鉈で割りやすい針葉樹は、
直線的で荒削りの作風に
適していたと思われる。

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古居利康 13年3月17日放送


Tsuyoshi Adachi as thin-p
円空と木喰 8

大正の終わりから昭和初期にかけて
活躍した彫刻家、橋下平八は、
あるとき円空仏に出会って衝撃を受ける。

「碧玉の如き清浄無垢とそれを作出する
 精神の明澄さ、その技能の洗練。」

と、橋下平八の日記にある。
近代の彫刻家は円空仏の自在な鑿使いと
無垢な精神性に惹かれた。

同じ頃、日常の美を提唱した
民藝運動で知られる柳宗悦は、
四国の寺で木喰仏を発見する。

「私は彼を日本が産んだ最も独創的な
 仏師として記念することを躊躇しない。」

そう柳は書いている。

けれども、円空も木喰も
芸術品をつくったわけではない。
人々の苦しみを身代わりになって
背負う、実用品としての仏像。
その造形が美しいとしても、
作者の意図するものでは
必ずしもなかっただろう。

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