2013 年 4 月 20 日 のアーカイブ

澁江俊一 13年4月20日放送



啄木の上京

どうせ貧乏するなら、
北海道まで来て貧乏しているよりは
東京で貧乏した方がいい。
東京だ。東京だ。

そう日記に記し、
月給が25円ほどの時代に
千三百円以上の借金をしていた石川啄木。
三度目の上京中、彼は一晩で八百五十五首もの短歌を書く。
それはやがて歌集「一握の砂」となる。

たくさんの人に迷惑をかけ
その素朴な歌とはかけ離れた
わずか26年の人生を破滅的に駆け抜けた。

 東京を夢見つづけた啄木はまた
 東京の美しい風景も多く歌っている。

 春の雪
 銀座の裏の三階の煉瓦造に
 やはらかに降る

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礒部建多 13年4月20日放送



タモリの上京

「誰の弟子にもならない。」
芸能界へ入る際、タモリはこう決めた。
しかし赤塚不二夫との間柄は
誰が見ても、師匠と弟子の関係だった。

上京して間もないタモリを、
赤坂の自宅で住まわせる代わりに、
自分は事務所で寝泊まりをしていた赤塚。
毎晩のように杯を交わしては、芸を説いた。

 タモリは今まで会ったことのない、ものすごい才能だ。

 ああいう都会的でしゃれたギャグをやる奴は、贅沢させないと。

 貧しい下積みなんかさせちゃダメだ。

そう語った赤塚は、タモリにとって師匠以上であり
父のように慕う存在でもあった。
そんな赤塚へ読んだ、タモリの弔辞。

 私もあなたの数多くの作品の1つです。

「バカヤロー」と後頭部を掻きながら
恥ずかしそうに怒鳴る、赤塚の顔が目に浮かぶ。

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松岡康 13年4月20日放送



東京生まれの上京

 恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で

このフレーズではじまる「木綿のハンカチーフ」。
松本隆が作詞し
太田裕美が歌うこの曲は、
1972年に発売され大ヒットとなった。

東京の都会的な空気に触れ、変わっていく男。
故郷にいたころのように、彼に変わらないでいてほしいと願う女。
松本は、上京にまつわる別れのさみしさを見事に描ききった。

実は、松本には上京経験などない。
東京のど真ん中、港区青山生まれ。
歌詞にはこうある。

 都会の絵の具に 染まらないで帰って

東京という大都会をいちばんよく知る松本。
彼が言う「都会の絵の具」とは、
どんな色だったのだろう。

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奥村広乃 13年4月20日放送



捨松の上京

日本人初の女子留学生 山川捨松(やまかわ すてまつ)

彼女の名前は、咲子(さきこ)だった。
会津藩の武士の娘として生まれ、
幼少期に戊辰戦争を体験した。

12歳になったある日。
兄から「上京して、アメリカへ旅立ち、
10年間みっちり学んでこい。」と言い渡される。

彼女の母は、娘を東京へ送り出すまえに改名をさせた。
「私はお前を捨てたつもりでアメリカへ送り出すが、
お前がお国のために立派に帰ってくる日を心待ちにして待っているよ。」
そんな思いを込めてつけた名前は、捨松(すてまつ)。

山川捨松。
彼女は、日本初の女子留学生の一人だ。

明治4年11月12日。
明け方降りた霜がきらきらと輝く快晴の中、
彼女をのせたアメリカ号は、
サンフランシスコへ出発した。

東京は、おおきな目標へのゴールだけではなく、
時として出発点にもなる。

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奥村広乃 13年4月20日放送



光雲の上京

高村光雲。
江戸の木彫り技術に西洋の写実主義を取り入れた
江戸から東京へ。
激動する時代の中、
世の中で、輸出用の象牙彫刻が流行っても
己の道を信じ、木彫り彫刻を極めた。

代表作は「老猿」。
明治26年に、シカゴ万博に出品されたこの老猿は、
上空をカッとにらみつけ、
左手に、鷹の羽を掴んでいる。

緊迫した世界情勢の中、
これほど険しい顔をした猿を
彼はどんな思いで彫ったのだろうか。

この万博の後、明治政府から依頼されて制作されたのが
上野に立つ、西郷隆盛像だ。

年間6000万人もが行きかう上野駅。
東京を訪れた多くの人を、
西郷さんは今も見つめている。

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松岡康 13年4月20日放送



ももこの上京

国民的漫画「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこ。

さくらももこが上京した日、母がいっしょにいた。
その日は狭いワンルームにふたりで寝て
翌日東京駅で母を見送った。

 わたしは今日からひとりになりました
 家に帰ってももうだれもいません

故郷の友人や家族と離れたさみしさ。
東京の街と生きていく、漠然とした不安。
そんな思いからこぼした言葉だった。

上京の日から30年がたつ。
今日もさくらももこは、東京に住み、ふるさとを描いている。

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澁江俊一 13年4月20日放送



賢治の上京

37年の短い人生で
9回も上京していた宮沢賢治。

突発的だったのは
5度目の大正十年。
父との衝突の末の
逃げるような上京だった。

印刷所で働きながら
宗教活動にも精を出し
最愛の妹トシが病に倒れたという電報が届くまで
ひと月に三千枚もの童話を書いていた。

その後も上京を繰り返しながら
いつしか賢治の理想郷は
憧れのすべてがあった東京から
イーハトーブという
心の中のユートピアへと移っていく。

その建設を夢見た故郷の岩手で
賢治は人生を静かに終える。
手がけた多くの作品が
後に日本中で読み継がれることも知らずに。

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