2013 年 7 月 21 日 のアーカイブ

礒部建多 13年7月21日放送



沖縄のサンゴ

2011年7月、
世界で初めて、サンゴの全ゲノム解読に成功したと
沖縄の研究チームが発表した。

チームを指揮したのは
佐藤矩行(さとう のりゆき)。
沖縄科学技術大学大学院教授で、
進化発生学の権威である。

珊瑚礁の海はこの星の海洋面積の0.2%に過ぎないが
海の生物のおよそ25%の命を支えている。
観光や漁業など日本国内でサンゴがもたらす
経済効果は2,500億円にも及ぶという。
佐藤たちの研究は、地球温暖化で
絶滅の危機に瀕するサンゴを守る、確かな一手だ。

世界のサンゴを救うための発見が
沖縄の海で生まれたことは、きっと偶然ではない。

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澁江俊一 13年7月21日放送


N.kimy
沖縄の映画

かつて沖縄で映画を撮るなら
戦争や米軍基地は
切っても切れないテーマだった。

1999年の世紀末に
その悲しい引力を解き放ち
ウチナーンチュの
明るく楽しくやさしい世界を
描き抜いた映画「ナビィの恋」。

ヒロインのおばぁ「ナビィ」に平良とみ。
その夫を演じ、沖縄のジミヘンと呼ばれた
三線の名手、登川誠仁をはじめ
沖縄文化の担い手が総出演。
京都生まれの中江裕司監督による
おばぁの一途なラブストーリーと
沖縄音楽満載の演出は
18万人もの県民に愛される大ヒット。
小渕総理が絶賛し、本土でも話題になった。

語り継ぐことは大切。
だけど戦争だけが沖縄のテーマじゃない。
本当はこういう映画を
みんな心から観たかったのだ。

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礒部建多 13年7月21日放送



沖縄と野球

沖縄野球の父と呼ばれた、
栽弘義(さい ひろよし)の姿である。
栽は、豊見城高校や
沖縄水産高校の監督を歴任し
沖縄高校野球のレベルアップに
大きく貢献した。

1990年、沖縄水産時代には
夏の甲子園で沖縄県勢として初の準優勝を成し遂げた。
翌年にも準優勝し、栽は名将の座を
ゆるぎないものにした。

春夏合わせて17回、
甲子園に出場した栽だが
念願の全国制覇を達成することなく
65歳で世を去った。
病床で、死の直前まで
こうつぶやいていたと言う。

もう一度甲子園に行きたい。優勝したい。

沖縄県勢はその後、
2008年に沖縄尚学が選抜優勝。
2010年には春の優勝校、興南が初めて夏を制した。

沖縄の強い野球を日本中に見せたい。
栽の熱い闘志は、球児たちに確かに受け継がれている。

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奥村広乃 13年7月21日放送



沖縄の戦場カメラマン

彼は、ときに残酷な写真を撮る。
それが、戦争の現実だからだ。

報道カメラマン、石川文洋(いしかわ ぶんよう)。

沖縄で5歳まで暮らしていた石川は
1965年、ベトナムへ渡り
ベトナム戦争を取材する。
銃をもち、村へ突入する兵士たち。
目の前の惨劇におびえる農民たち。
家を、家族を亡くした子どもたち。
目をそむけたくなる現実にむけて、シャッターを切った。

そこで撮影された写真の一部は、
ベトナムのホーチミン市戦争証跡博物館に
常設展示されている。

「命(ぬち)どぅ宝」。
沖縄の言葉で「命こそ宝」という意味だ。
この言葉を胸に石川は、
ベトナムや沖縄の写真を撮りつづけて
戦争をしらない世代に、戦争の実態と
命の大切さを伝えている。

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澁江俊一 13年7月21日放送



総理の沖縄

第84代内閣総理大臣、小渕恵三。

官房長官時代に
平成の新年号を日本中に伝え
「平成おじさん」と親しまれた小渕は、
沖縄に並々ならぬ想いがあった。

学生時代、何度も沖縄を旅して
激戦地だった摩文仁村(まぶにそん)を訪れ
遺骨を収集した小渕。

26歳で議員に当選。
「もはや戦後ではない」という流行語に小渕は
「沖縄の戦後は終わっていない!」と憤慨した。

首相としてサミットの会場を決める際、
福岡や宮崎などの有力候補地を退けて
沖縄にすると決断したのも、
新しく発行した2000円札に
首里城の守礼門を採用したのも彼だった。

その心にはいつも、すべての国民に
沖縄を忘れないでほしいという想いがあった。

2000年5月。
沖縄での開催が大きな話題になり
世界が注目したサミットの直前に倒れ、
62歳の若さで世を去った小渕総理。
支持率も上がり、長期政権も視野に入れた時期の
あまりにも突然の別れだった。

あれから13年。
今の沖縄を見て、彼ならば何を思うだろうか?

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松岡康 13年7月21日放送



沖縄と建築家

沖縄県糸満市摩文仁の丘。

青い海と空を背に、
どっしりとした沖縄赤瓦の屋根が
静かに浮いている。

ここは、沖縄戦没者墓苑。

20万人超といわれる沖縄戦犠牲者のうち
18万人余の遺骨が
琉球墳墓風の納骨堂に納められている。

設計したのは、
昭和近代建築の巨匠である谷口吉郎。

墓苑を構成する素材は、すべて地元沖縄産。
谷口は平和の礎となった人たちを温かくいだくように
納骨堂を片仮名の「コ」の字の形に設計した。

1979年2月2日に完成。
そのわずか1日後の2月3日、
戦没者墓苑の完成を見届けるように
谷口はこの世を去った。

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澁江俊一 13年7月21日放送


bluegreen405
沖縄と芸術家

縄文土器の魅力を発見して以来、
日本文化の根源を探る旅を
続けていた芸術家・岡本太郎。

「わび」「さび」の伝統形式を、
生命力がないと否定した太郎は
沖縄の聖地・御嶽(うたき)が、
礼拝所もご神体もない空き地であることに、深く感動する。

沖縄には、何もない場所にこそ、神の存在があったのだ。

本土復帰にあたり、沖縄の人々に太郎が記した言葉。
「島は小さくてもここは日本、いや世界の中心だという
人間的プライドをもって、豊かに生きぬいてほしいのだ」

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奥村広乃 13年7月21日放送


butterforfilm
沖縄の詩人

白い砂浜が、ゆるやかなカーブを描き、
エメラルドグリーンの遠浅な海がきらめく。
うっそうと茂る緑の木々が、心地よい木陰をつくる。
沖縄県 石垣島 底地(すくじ)ビーチ。

その傍らに、1つの石碑がある。
石垣島出身の詩人、伊波南哲(いば なんてつ)の詩碑だ。

ふるさとは
わがこころのともしび
のぞみもえ
こころはほのぼのと
とめるふるさと

彼は明治35年石垣島に生まれ、
その生涯を閉じるまで
沖縄や石垣島をうたいつづけた。

知り合いがいるわけでもないのに
甲子園では、地元の高校を応援してしまう。
ワールドカップでは、自分の国を応援してしまう。
人には、生まれた場所を愛してしまう
DNAが流れているのかもしれない。

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