2013 年 7 月 のアーカイブ

阿部広太郎 13年7月27日放送



眠りの話 加山雄三の居眠り

「加山、眠いのか」

『椿三十郎』の撮影中、自分のセリフがないシーンで
堂々と居眠りする加山雄三を見て、監督の黒澤明は問いかけた。

つかつかと加山に歩み寄る黒澤。一気に凍りつく撮影現場。
加山は、ぶん殴られることを覚悟した。
しかし、飛んできたのは拳ではなく、誰もが驚いたこんな言葉だった。

「じゃあ加山のために休憩!」

25歳の若手俳優1人ために、撮影は3時間もストップ。
黒澤は、とにかく加山に甘かったという。

「加山、お前は白紙でいい」

のちに日本の若大将として愛される加山の素直さを、
大切にしたかったのかもしれない。

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村山覚 13年7月27日放送



眠りの話 ダリの見た夢

シュールレアリスムの画家として知られる
サルバドール・ダリは、
うたた寝の仕方も一風変わっていた。
それは、指の間にスプーンを持ち、
真下に金属の皿を置いて寝るという方法。

眠りに落ちたダリの指からするりと落ちるスプーン。
高らかに響く金属音が、ダリを現実に呼び戻す。
うたた寝で見た夢の世界を
キャンバスに描きうつしたこともあったのだろうか。

奇人変人的なエピソードを数多く残しているダリだが、
緻密な計算に基づいた、したたかな男だったのかもしれない。

ダリはこんな言葉をのこしている。

 「天才になるには、天才のふりをすればいい。」

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村山覚 13年7月27日放送



眠りの話 昼寝るチャーチル

イギリスの政治家、ウィンストン・チャーチル。
彼は当時としては珍しく、90歳まで生きた。

ある軍人が
「私は酒を飲まないし、葉巻も吸わない。よく眠る。
これが100%健康でいられる理由だ」
と言ったのに対し、チャーチルはこう返した。
「私はよく飲むし、次々に葉巻をふかす。 少ししか寝ない。
これが200%健康でいられる理由だ」

「少ししか寝ない」とうそぶいたチャーチルだが、実は毎日昼寝をしていた。
戦争中の司令室のすぐ横にはベッドルームがあったし、
国会議事堂の中にも昼寝用ベッドがあったそうだ。
チャーチルは昼寝でリフレッシュし、そのぶん深夜遅くまで働いた。

ノンフィクションの作家としてノーベル文学賞も受賞している
チャーチルらしい言葉を紹介しよう。

「私には元気づけてくれる夢など必要なかった。
 事実は、夢にまさるのである」

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藤本宗将 13年7月27日放送


ROSS HONG KONG
眠りの話 阿佐田哲也の病

「麻雀放浪記」の作者・阿佐田哲也のペンネームは、
麻雀で徹夜を繰り返していた頃に
「朝だ!徹夜だ!」と言ったことに由来する。

けれど、あるときから徹夜ができなくなった。
ナルコレプシーという病気で苦しむようになったからだ。
突然強い眠気に襲われ、何をしていても眠ってしまう。

麻雀の途中でも一巡するごとに眠り、
また起こされては寝ぼけたまま牌を切る。
友人だった井上陽水によれば、
横にあったすし桶のトロをつまんで切ったこともあったという。
つかめない人だよね、と陽水は笑う。

病の苦しみを感じさせないポーカーフェイス。
彼は天性のギャンブラーだった。

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藤本宗将 13年7月27日放送



眠りの話 左甚五郎の猫

日光東照宮の東回廊。奥宮(おくみや)の入り口に、
「眠り猫」と呼ばれる有名な彫刻がある。

一説によれば、日の光を浴びて眠る猫の姿で
「日光」を表現しているともいう。

しかし作者とされる名匠・左甚五郎には
実在したという証拠がない。

それは夢だったのか。
ただ、素晴らしい作品だけが現実に残されている。

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藤本宗将 13年7月27日放送


F1-history
眠りの話 シューマッハのスタート

1991年8月23日、F1ベルギーグランプリ初日。
ひとりのドライバーが、念願のF1デビューを迎えていた。

ピンチヒッターとして突然転がり込んできたビッグチャンス。
しかし、緊張のピークであるはずの予選スタート前、
この新人はとんでもないことをやらかした。

当時のチームマネージャーはこう証言する。
「これから神経を研ぎ澄ませてタイムアタックしなければならないのに、
 この男はとてもリラックスしていたんだ。
 コクピットで居眠りする奴なんて聞いたことがない!」

だが本当に驚くのはスタート後だった。
下見もろくにしていないコースを彼はこともなげに攻略。
決勝こそリタイヤに終わったものの、
目の覚めるような走りで関係者の度肝を抜き、
わずか一戦でトップチームに引き抜かれた。

ミハエル・シューマッハ22歳のデビューレースであった。

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礒部建多 13年7月21日放送



沖縄のサンゴ

2011年7月、
世界で初めて、サンゴの全ゲノム解読に成功したと
沖縄の研究チームが発表した。

チームを指揮したのは
佐藤矩行(さとう のりゆき)。
沖縄科学技術大学大学院教授で、
進化発生学の権威である。

珊瑚礁の海はこの星の海洋面積の0.2%に過ぎないが
海の生物のおよそ25%の命を支えている。
観光や漁業など日本国内でサンゴがもたらす
経済効果は2,500億円にも及ぶという。
佐藤たちの研究は、地球温暖化で
絶滅の危機に瀕するサンゴを守る、確かな一手だ。

世界のサンゴを救うための発見が
沖縄の海で生まれたことは、きっと偶然ではない。

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澁江俊一 13年7月21日放送


N.kimy
沖縄の映画

かつて沖縄で映画を撮るなら
戦争や米軍基地は
切っても切れないテーマだった。

1999年の世紀末に
その悲しい引力を解き放ち
ウチナーンチュの
明るく楽しくやさしい世界を
描き抜いた映画「ナビィの恋」。

ヒロインのおばぁ「ナビィ」に平良とみ。
その夫を演じ、沖縄のジミヘンと呼ばれた
三線の名手、登川誠仁をはじめ
沖縄文化の担い手が総出演。
京都生まれの中江裕司監督による
おばぁの一途なラブストーリーと
沖縄音楽満載の演出は
18万人もの県民に愛される大ヒット。
小渕総理が絶賛し、本土でも話題になった。

語り継ぐことは大切。
だけど戦争だけが沖縄のテーマじゃない。
本当はこういう映画を
みんな心から観たかったのだ。

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礒部建多 13年7月21日放送



沖縄と野球

沖縄野球の父と呼ばれた、
栽弘義(さい ひろよし)の姿である。
栽は、豊見城高校や
沖縄水産高校の監督を歴任し
沖縄高校野球のレベルアップに
大きく貢献した。

1990年、沖縄水産時代には
夏の甲子園で沖縄県勢として初の準優勝を成し遂げた。
翌年にも準優勝し、栽は名将の座を
ゆるぎないものにした。

春夏合わせて17回、
甲子園に出場した栽だが
念願の全国制覇を達成することなく
65歳で世を去った。
病床で、死の直前まで
こうつぶやいていたと言う。

もう一度甲子園に行きたい。優勝したい。

沖縄県勢はその後、
2008年に沖縄尚学が選抜優勝。
2010年には春の優勝校、興南が初めて夏を制した。

沖縄の強い野球を日本中に見せたい。
栽の熱い闘志は、球児たちに確かに受け継がれている。

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奥村広乃 13年7月21日放送



沖縄の戦場カメラマン

彼は、ときに残酷な写真を撮る。
それが、戦争の現実だからだ。

報道カメラマン、石川文洋(いしかわ ぶんよう)。

沖縄で5歳まで暮らしていた石川は
1965年、ベトナムへ渡り
ベトナム戦争を取材する。
銃をもち、村へ突入する兵士たち。
目の前の惨劇におびえる農民たち。
家を、家族を亡くした子どもたち。
目をそむけたくなる現実にむけて、シャッターを切った。

そこで撮影された写真の一部は、
ベトナムのホーチミン市戦争証跡博物館に
常設展示されている。

「命(ぬち)どぅ宝」。
沖縄の言葉で「命こそ宝」という意味だ。
この言葉を胸に石川は、
ベトナムや沖縄の写真を撮りつづけて
戦争をしらない世代に、戦争の実態と
命の大切さを伝えている。

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