2013 年 8 月 10 日 のアーカイブ

佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館①「フィリップ2世」

 パリをいかに守るべきか 

12世紀のフランス王、
フィリップ2世は悩んでいた。

自分が十字軍に参加している間に、
もしもイギリスが攻めてきたら?

 立派な塔と
 城門を備えた城壁で 
 街を囲え 

彼はパリ市民に命じた。
しかしそれにはひとつ問題があった。

街のまん中をセーヌ川が流れているため、
城壁が分断され、
防御が手薄になってしまうのだ。

そこで彼らは、
防衛上最も重要なセーヌ下流の右岸に
出城をつくることにした。

それが後に
世界一有名な美術館になる

 ルーブル城 

である。

「ルーブル」の語源には
「要塞」や「偉大な」など諸説あるが、
現在でもよくわかっていない。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館②「フランソワ1世」

 フランス・ルネサンスの父

と呼ばれ、

 レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロン

としても知られる、
16世紀のフランス王フランソワ1世。

彼は、

 国王の権力は
 神から授けられたものである

という王権神授説に基づき、

 自分が住むルーブル城も
 権力の象徴でなければならない

と考えた。

1546年、城を宮殿に改築するよう
建築家ピエール・レスコに命じるが、
完成を待たずに翌年急逝してしまう。

宮殿は完成後、
ローマ神話を題材としたたくさんの彫刻と、
彼自身が集めた厖大な美術品で飾られた。

その中にはあの

 モナ・リザ

も含まれていた。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館③「サロン」

太陽が沈んだ後に現れたのは、
もうひとつの太陽だった。

フランス王ルイ14世は母を亡くしてから
すっかり元気を失ってしまった。
失意のあまり彼は
母の思い出が残るルーブル宮殿を離れ、
ヴェルサイユ宮殿に居を移した。

72年というフランス史上最長かつ、
ギネス記録になるほどの在位期間を誇り、

 太陽王

と呼ばれた男の勢いは
もうそこにはなかった。

国王にかわり、
宮殿の新しい主となったのは、
フランス王立の絵画・彫刻アカデミー。

彼らは宮殿内にアトリエを設け、
2年ごとに

 サロン

と呼ばれる大展覧会を開催した。

その余りの盛況ぶりを聞きつけた
ルイ14世も隠遁先から駆けつけ、
活動の成果に目を輝かせた。

やがてルーブルの中や周囲には
大勢の画家や彫刻家が住みつき、
宮殿は自由な創作活動の中心地となった。

芸術は確実に特権階級から
大衆の手に移り始めていた。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館④「革命」

 「暴動か?」

王が聞くと、側近は答えた。

 「いいえ、革命です」

1789年7月14日、
バスティーユ牢獄の襲撃を皮切りに
フランス革命が勃発。

国王ルイ16世と
妃マリー・アントワネットは投獄され、
フランスは王から国民のものになった。

それは同時に、
宮殿に収められた美術品の数々も
国有の財産となったことを意味する。

議会はルーブル宮殿を

 学問と芸術における
 あらゆる記念碑的な作品を集めた場所

と定め、内部を美術館に作り変えた。

かくして今から220年前、
1793年の今日、
ルーブル美術館が誕生した。

それは、

 世界で最も美しい
 国民主権の象徴

だった。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館⑤「ナポレオン」

オーストリア王女
マリー・クルーズとの結婚式場に
ナポレオンが選んだのは、
ルーブル美術館だった。

当時、

 ナポレオン美術館

と改名されていた建物の中は、
ヨーロッパ各国から略奪した
厖大な美術品で溢れかえっていた。

 大いなるものは常に美しい。

そう言ってナポレオンは、
急増する戦利品を収めるために
宮殿の大増築を始めた。

彼はルーブルを
世界一の美術館にしようと目論んだ。

しかし1815年、ワーテルローの戦いで
イギリスやドイツの同盟軍に大敗すると、
元の持ち主たちは、
美術品の返還をフランスに求めた。

ところが美術館の上層部は
要求に応じなかった。

それどころか彼らは美術品を
自分のコレクションに紛れ込ませて
隠匿しようと試みた。

おかげでいくつかの傑作は
そのまま美術館に留まり、
今も私たちの目を楽しませ続けている。

大いなる美はすべてを正当化する。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館⑥「美術館学」

戦争で略奪するだけが、
美術品の入手方法ではない。

19世紀から20世紀にかけて、
ルーブル美術館はその作品数を
爆発的に増やした。

その多くが寄贈品だったことは、
ルーブルが真に
民衆のための美術館だった証である。

所蔵品の増加に伴い、

 美術館学

が生まれた。

それまで所狭しと並べられていた作品は
年代・地域・流派ごとに分類し直された。

国民に正しい美術教育を施すことも
美術館の使命である、
と考えられるようになったのだ。

作品を解説する鑑賞ツアーが組まれ、
日曜には家族連れで賑わった。

そこにはフランス革命が掲げた

 自由と平等

の精神が確かに生きていた。

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佐藤理人 13年8月10日放送



ルーブル美術館⑦「疎開」

「モナ・リザ」は3度疎開した。

最後の疎開は1939年。
第二次世界大戦が始まると「彼女」は、
フランスの片田舎でジッと身を潜めた。

しかしナチスの追跡は執拗だった。
世界で最も美しい微笑みを守るために、
大勢の命が犠牲になった。

世界一の入場者数を誇るルーブル美術館。

その栄光は、

 人類の財産を所有する者は
 それを守る責任も有する

という、名もなき人々の
崇高な使命感に支えられている。

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