k_oota
タルコフスキーの日記から ①1970年9月13日
『9月13日
今日、大阪のエキスポ’70が閉幕した』
旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1970年の日記にそう記した。
映画『惑星ソラリス』に登場する
未来都市の舞台に彼が選んだのは、
日本の大阪だった。
万博会場を未来都市に見立てた撮影を
ソヴィエト当局に申請していた。
しかし、待てども待てども許可がおりない。
k_oota
タルコフスキーの日記から ①1970年9月13日
『9月13日
今日、大阪のエキスポ’70が閉幕した』
旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1970年の日記にそう記した。
映画『惑星ソラリス』に登場する
未来都市の舞台に彼が選んだのは、
日本の大阪だった。
万博会場を未来都市に見立てた撮影を
ソヴィエト当局に申請していた。
しかし、待てども待てども許可がおりない。
タルコフスキーの日記から ②1970年9月14日
『9月14日
今日、日本のビザが送られてきた。
また誰かが話をぶちこわしにしない限り、
今週末に出発できる。』
映画監督タルコフスキーの日記から。
『惑星ソラリス』のための日本ロケを
ソヴィエト当局が許可したのは、皮肉にも、
大阪万博が閉幕した翌日のことだった。
『もちろんもうエキスポは終わってしまったが、
もしかしたら夜明けの薄明かりの中で
その建物を撮影することはできるかもしれない。』
しかし、タルコフスキーは結局、
日本に出発できなかった。
映画『惑星ソラリス』実現のためには、
海外ロケ以外にも山のような障害があった。
Père Ubu
タルコフスキーの日記から ③1971年8月10日
『8月10日
書く時間がまるでない。
「ソラリス」でへとへとになった。』
旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1971年の日記にそう書いている。
2年前に企画提案し、採用された、
映画『惑星ソラリス』。
ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの
長編小説『ソラリスの陽の下で』を
原作とするこの映画企画に対し、
ソヴィエト当局の表現チェックは厳重を極めた。
宇宙開発の過程で遭遇した未知の天体。
人間の過去や記憶を、眼に見えるかたちで
再現する謎の物質。亡くなった妻と
瓜ふたつの女性に出会う主人公・・。
バラ色の未来ではない。
どこか閉塞的なモノトーンの未来。
1971年に入って、
ソヴィエト国内でのロケーション、
セット撮影は着々と進行した。
9月22日、タルコフスキーは、
ようやく日本へ旅立つことになった。
matsuyuki
タルコフスキーの日記から ④1971年10月14日
『10月14日
10日に日本から戻った。
くたくたに疲れた』
映画監督タルコフスキーの日記より。
1971年9月24日から10月8日まで、
タルコフスキーは、『惑星ソラリス』の
撮影のために日本に滞在した。
大阪万博の閉幕から1年たっていた。
万博会場の跡地を訪ねたが、
イメージどおりの撮影はできなかった。
苦肉の策として、東京の首都高速道路を
疾走するクルマから見える風景を撮影した。
ykanazawa1999
タルコフスキーの日記から ⑤1971年10月23日
『10月23日
日本は驚くべき国だ。
ヨーロッパともアメリカとも、
何ひとつ共通するところがない。偉大な国だ。
だれもチップを受け取ろうとしない。
失業者もいない。』
と、映画監督タルコフスキーは
1971年の日記に書いた。
映画『惑星ソラリス』のロケから帰国して1週間。
165分の映画の中で約6分間、カットなしで
使用された首都高速からの移動撮影は、
われわれが見慣れた東京とはまるで別ものに見える。
赤坂トンネルから新宿方面に向かう首都高。
タクシーやトラックが追い抜いていく。
見覚えのあるホテルや高層ビルが左右に映り、
左手に中央線の車両が飛ぶように過ぎ去ったかと
思えば、その先になぜか銀座と羽田の分岐点が来て、
振り出しに戻るかのように一ノ橋から飯倉へ
疾走する風景・・。
ソヴィエトで製作された映画『デルス・ウザーラ』
が縁で、親交を深めていた黒澤明が、
タルコフスキーの日本ロケに協力したと言う。
映画に登場する首都高の風景は、
タルコフスキーが滞在していたホテルから
黒澤の事務所に向かう道筋だった、という説もある。
タルコフスキーの日記から ⑥1972年1月12日
『1月12日
昨日、N.T.シゾーフが、
中央委員会文化部、デーミチェフ文化相、映画委員会、
総管理局などさまざまな機関に寄せられた
『ソラリス』に対するコメントやクレームを私に伝えた。』
1971年12月に完成した映画『惑星ソラリス』
に対して、ソヴィエト当局の見解が下された。
35項目にわたる修正の要請だった。
1972年のタルコフスキーの日記に、その詳細がある。
未来の地球の姿を明確にせよ。
惑星ソラリスへの飛行シーンを入れよ。
神の概念を排除せよ。
キリスト教の概念を排除せよ。
ベッドシーンを短くせよ。
主人公がズボンをはかずに歩くシーンをカットせよ。
科学者の会議が「裁判」に見える。
結局、科学は人間的なのか、不明瞭。
観客には何が何だかわからないのではないか。
修正をすべて受け入れるわけにはいかない。
しかし、このままでは映画は公開されない。
映画監督は国家の理不尽に対して
粘り強く、慎重に戦おうとした。
タルコフスキーの日記から ⑦1972年2月16日
『2月16日
現在、わが国では、当然のことながら
おそろしくひどい状態にある。
金を出しているからと言って、国家そのものが
映画の構想を踏みにじっている。
ろくに話もできない無能な受勲者と高官が、
わが国の映画を廃墟に変えてしまった。』
激しい呪詛の言葉を書き連ねた
映画監督タルコフスキーの1972年の日記。
『惑星ソラリス』に対する当局の修正命令を
かわしたり、かいくぐったり、受け入れたり、
神経を使う作業が続いていた。
Père Ubu
タルコフスキーの日記から ⑧1973年1月29日
『1月29日
2月5日に『ソラリス』が
モスクワで劇場公開される。」
『2月6日
『ソラリス』に対する観客の反応は
よかったそうだ。客席に空席は見当たらず、
上映中出ていく人はいなかった。』
映画監督タルコフスキーの日記より。
1970年の構想以来、
いくつもの困難を乗り越えて
ようやく公開に至った喜びが伝わってくる。
その後、いくつもの企画を立案しては
却下され、妨害され、潰され、
54年の生涯で、わずか7本の長編映画しか
つくれなかったアンドレイ・タルコフスキー。
ひとはこの映画監督を寡作家と呼ぶ。
しかし、それは正確ではない。
タルコフスキーとは、
つくりたいのに、つくれない映画監督だった
Copyright ©2009 Vision All Rights Reserved.