2013 年 8 月 のアーカイブ

古居利康 13年8月25日放送



タルコフスキーの日記から ②1970年9月14日

『9月14日
 今日、日本のビザが送られてきた。
 また誰かが話をぶちこわしにしない限り、
 今週末に出発できる。』

映画監督タルコフスキーの日記から。
『惑星ソラリス』のための日本ロケを
ソヴィエト当局が許可したのは、皮肉にも、
大阪万博が閉幕した翌日のことだった。

『もちろんもうエキスポは終わってしまったが、
 もしかしたら夜明けの薄明かりの中で
 その建物を撮影することはできるかもしれない。』

しかし、タルコフスキーは結局、
日本に出発できなかった。
映画『惑星ソラリス』実現のためには、
海外ロケ以外にも山のような障害があった。

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古居利康 13年8月25日放送


Père Ubu
タルコフスキーの日記から ③1971年8月10日

『8月10日
 書く時間がまるでない。
「ソラリス」でへとへとになった。』

旧ソヴィエトの映画監督、
アンドレイ・タルコフスキーは、
1971年の日記にそう書いている。

2年前に企画提案し、採用された、
映画『惑星ソラリス』。
ポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムの
長編小説『ソラリスの陽の下で』を
原作とするこの映画企画に対し、
ソヴィエト当局の表現チェックは厳重を極めた。

宇宙開発の過程で遭遇した未知の天体。
人間の過去や記憶を、眼に見えるかたちで
再現する謎の物質。亡くなった妻と
瓜ふたつの女性に出会う主人公・・。

バラ色の未来ではない。
どこか閉塞的なモノトーンの未来。

1971年に入って、
ソヴィエト国内でのロケーション、
セット撮影は着々と進行した。

9月22日、タルコフスキーは、
ようやく日本へ旅立つことになった。

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古居利康 13年8月25日放送


matsuyuki
タルコフスキーの日記から ④1971年10月14日

『10月14日
 10日に日本から戻った。
 くたくたに疲れた』

映画監督タルコフスキーの日記より。

1971年9月24日から10月8日まで、
タルコフスキーは、『惑星ソラリス』の
撮影のために日本に滞在した。

大阪万博の閉幕から1年たっていた。
万博会場の跡地を訪ねたが、
イメージどおりの撮影はできなかった。
苦肉の策として、東京の首都高速道路を
疾走するクルマから見える風景を撮影した。

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古居利康 13年8月25日放送


ykanazawa1999
タルコフスキーの日記から ⑤1971年10月23日

『10月23日
 日本は驚くべき国だ。
 ヨーロッパともアメリカとも、
 何ひとつ共通するところがない。偉大な国だ。
 だれもチップを受け取ろうとしない。
 失業者もいない。』

と、映画監督タルコフスキーは
1971年の日記に書いた。

映画『惑星ソラリス』のロケから帰国して1週間。
165分の映画の中で約6分間、カットなしで
使用された首都高速からの移動撮影は、
われわれが見慣れた東京とはまるで別ものに見える。

赤坂トンネルから新宿方面に向かう首都高。
タクシーやトラックが追い抜いていく。
見覚えのあるホテルや高層ビルが左右に映り、
左手に中央線の車両が飛ぶように過ぎ去ったかと
思えば、その先になぜか銀座と羽田の分岐点が来て、
振り出しに戻るかのように一ノ橋から飯倉へ
疾走する風景・・。

ソヴィエトで製作された映画『デルス・ウザーラ』
が縁で、親交を深めていた黒澤明が、
タルコフスキーの日本ロケに協力したと言う。
映画に登場する首都高の風景は、
タルコフスキーが滞在していたホテルから
黒澤の事務所に向かう道筋だった、という説もある。

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古居利康 13年8月25日放送



タルコフスキーの日記から ⑥1972年1月12日

『1月12日
 昨日、N.T.シゾーフが、
 中央委員会文化部、デーミチェフ文化相、映画委員会、
 総管理局などさまざまな機関に寄せられた
『ソラリス』に対するコメントやクレームを私に伝えた。』

1971年12月に完成した映画『惑星ソラリス』
に対して、ソヴィエト当局の見解が下された。
35項目にわたる修正の要請だった。
1972年のタルコフスキーの日記に、その詳細がある。

 未来の地球の姿を明確にせよ。
 惑星ソラリスへの飛行シーンを入れよ。
 神の概念を排除せよ。
 キリスト教の概念を排除せよ。
 ベッドシーンを短くせよ。
 主人公がズボンをはかずに歩くシーンをカットせよ。
 科学者の会議が「裁判」に見える。
 結局、科学は人間的なのか、不明瞭。
 観客には何が何だかわからないのではないか。

修正をすべて受け入れるわけにはいかない。
しかし、このままでは映画は公開されない。
映画監督は国家の理不尽に対して
粘り強く、慎重に戦おうとした。

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古居利康 13年8月25日放送



タルコフスキーの日記から ⑦1972年2月16日

『2月16日
 現在、わが国では、当然のことながら
 おそろしくひどい状態にある。
 金を出しているからと言って、国家そのものが
 映画の構想を踏みにじっている。
 ろくに話もできない無能な受勲者と高官が、
 わが国の映画を廃墟に変えてしまった。』

激しい呪詛の言葉を書き連ねた
映画監督タルコフスキーの1972年の日記。
『惑星ソラリス』に対する当局の修正命令を
かわしたり、かいくぐったり、受け入れたり、
神経を使う作業が続いていた。

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古居利康 13年8月25日放送


Père Ubu
タルコフスキーの日記から ⑧1973年1月29日

『1月29日
 2月5日に『ソラリス』が
 モスクワで劇場公開される。」

『2月6日
『ソラリス』に対する観客の反応は
 よかったそうだ。客席に空席は見当たらず、
 上映中出ていく人はいなかった。』

映画監督タルコフスキーの日記より。
1970年の構想以来、
いくつもの困難を乗り越えて
ようやく公開に至った喜びが伝わってくる。

その後、いくつもの企画を立案しては
却下され、妨害され、潰され、
54年の生涯で、わずか7本の長編映画しか
つくれなかったアンドレイ・タルコフスキー。
ひとはこの映画監督を寡作家と呼ぶ。
しかし、それは正確ではない。
タルコフスキーとは、
つくりたいのに、つくれない映画監督だった

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三島邦彦 13年8月24日放送


az1172
カムバック! フェリックス・サンチェス

彼の名はフェリックス・サンチェス。
2004年、アテネ五輪陸上男子400メートルハードルで
祖国に初めての金メダルをもたらしたドミニカの英雄。

その英雄に人生最悪の日がやって来たのは、
栄冠から4年後の北京五輪だった。
その日、祖母が亡くなったという連絡を受けたサンチェスは、
失意のままに予選敗退。
その後は怪我も重なり、
サンチェスはもう終わったと言われた。

そして2012年。ロンドン五輪。
サンチェスは、再びオリンピックの舞台に帰って来た。
そこで観衆は34歳という年齢を感じさせない、驚異的な走りを目の当たりにする。

結果は金メダル。記録は47秒63。全盛期と言われたアテネ五輪と同じタイムだった。
4年前の悲しみに思いを馳せ、祖母の写真を胸に抱き、大粒の涙を流した。

  多くの人にそろそろ引退しろと言われた。
  この結果を誰も予想できなかっただろ

レース後にそう語ったサンチェス。
8年ぶりの表彰台で流した涙は、やがて大きな笑顔に変わった。

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三島邦彦 13年8月24日放送


Sam Rae
カムバック! ヴィクトール・E・フランクル

ナチスの強制収容所から帰還した心理学者
ヴィクトール・E・フランクル。

わずかなパンと水のようなスープのみを与えられ、
雪の降る屋外で来る日も来る日も肉体労働を強いられる日々。
心理学者としての客観的な視線と、愛する妻への思いが、
フランクルの心を支えた。

戦争が終わり、故郷に帰った。
しかし、強制収容所で離ればなれになった妻と両親は
もう帰って来ないことを知った。

帰ることができなかった人たちのことを伝えること。
それを帰ることができたものの使命と考えたフランクルは
心理学者としての観察をもとに一冊の体験記を書いた。
その中で彼はこう語る。

 何千もの幸運な偶然によって、
 あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、
 とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。
 わたしたちはためらわずに言うことができる。
 いい人は帰ってこなかった、と。

  
日本では『夜と霧』というタイトルで、
今も強制収容所の真実を伝え続けている。

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三島邦彦 13年8月24日放送


y.caradec
カムバック! クルム伊達公子

彼女が復帰するというニュースに、世界が驚いた。
クルム伊達公子。
1996年に惜しまれつつ引退した彼女は、
2008年に復帰を発表。
12年ぶり、38歳でのツアー復帰。
まさに前代未聞だった。

しかし、復帰後のプレーを見て、世界はさらに驚くことになる。
衰えを見せない運動能力と、豊かな経験から来る巧みな駆け引き。
ブランクは、彼女をさらに魅力的なテニスプレーヤーにしていた。
彼女はこう言う。

 やっぱり私はテニスが好きだったんだと気づくのに、
 十一年半かかってしまいました。でもそれは必要な時間だったのです。

世界ランキングを駆け上がって行った10代の頃のニックネームは、
「ライジングサン」。日はまた昇る。何度でも。

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