2013 年 9 月 28 日 のアーカイブ

古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ①

1945年8月15日、
堀越二郎は日記にこう記した。

「戦は終わった。
 日本がすっかり消耗し尽くした後の、
 初めて経験する現実の敗戦。
 明日からわれわれは何をしたら
 よいのだろう」

堀越二郎。
太平洋戦争の初期、
無類の強さを誇った戦闘機、
零戦の設計者として知られるひと。

1939年4月の初飛行から、
改良型を含めて10430機という、
おびただしい数の零戦が
中国や太平洋の空を飛んだ。

そして、6年4ヶ月後、
零戦はその飛行を終えた。

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古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ②

1945年、日本は
連合国の占領下に入った。

残存していた戦闘機や爆撃機は
占領軍の手ですべて破壊され、
航空機の設計、製造はもとより、
研究も禁じられた。

大学の授業からは、
航空力学の科目が削除され、
飛行機の製造会社は
ことごとく解体された。

いわゆる「航空禁止令」が
発令されたのだ。

堀越二郎が勤めていた
三菱名古屋航空機製作所も
例外ではなかった。

堀越二郎、
この時42歳。働き盛りの歳で、
飛行機づくりという天職を
奪われることになった。

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古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ③

1952年、連合国と日本の間に
サンフランシスコ講和条約が結ばれ、
航空機の運行や製造の禁止が
一部緩和されることになった。

GHQは、当初日本の重工業を
根こそぎ無力化しようとした。
しかし、朝鮮戦争が勃発したことで、
日本の旧航空機メーカーに
連合国の軍用機の点検・修理をさせる
必要が生じた。

それと前後して民間航空会社が発足。
国内航路に米国製の旅客機が
就航するようになっていた。

1956年、GHQによる航空禁止令が
全面解除されると、日本人の手で
国産旅客機をつくろう、
という機運が高まっていった。

時代が、再び、
堀越二郎を求め始めていた。

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古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ④

軍用機という、時代の要請に迫られた結果、
日本の航空機技術は飛躍的進歩を遂げた。
航空機開発には、その国の技術の粋が結集する。
資材や原料の乏しいこの国の技術者は、
足りないものを知恵で補ううちに、気がつけば、
世界の最前線に立つ独自の技術を蓄積していた。

航空機製造を封印された技術は、自動車産業や
鉄道の分野に生かされようとしていた。

1957年、通産省が音頭をとって、
財団法人・輸送機設計研究協会が発足。
「日本の空を、日本の翼で」という掛け声の
もと、国産旅客機の開発に踏み切った。

そのとき招聘されたのが、
戦前の旧航空機メーカーの技術者たちだった。

旧中島飛行機から、『隼』の太田稔。
旧川西飛行機から、『紫電改』の菊原静男。
旧川崎飛行機から、『飛燕』の土井武夫。
そして、旧三菱から、『零戦』の堀越二郎。

日本の軍用機の生みの親だったメンバーが
設計陣に名を連ね、オールジャパンチームで
旅客機開発に取り組むことになった。

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古居利康 13年9月28日放送


Toshiro Aoki
その後の堀越二郎 ⑤

1962年、戦後初めての国産旅客機、
「YS-11」が日本の空を飛んだ。

堀越二郎ら設計陣は基礎設計を担当。
実機製作は若い技術者たちに委ねられた。

YS-11は、ただの飛行機ではなかった。
戦後、航空禁止令によって
世界の流れに致命的な遅れをとった
日本の航空機技術を再建し、
10年以上の空白を取り戻すための
一大プロジェクトであり、
かつて軍用機の開発に携わり、
戦争遂行の一端を担った
旧航空機メーカーの技術者と、
戦争のない時代の若い技術者をつなぐ、
空飛ぶ架け橋でもあったのだ。

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古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ⑥

1963年、60歳になった
堀越二郎は、三菱重工を退職。

退職後は、
東京大学宇宙航空研究所で講師を務め、
1965年には、
「昇降舵・操縦系統の剛性低下方式」
及び操縦装置の研究で工学博士号を得る。

その後、防衛大学教授、
日本大学生産工学部で教鞭をとり、
1982年、78年と6ヶ月の生涯を閉じた。

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古居利康 13年9月28日放送



その後の堀越二郎 ⑦

堀越二郎は、1903年、群馬県藤岡市に生まれた。
それは、奇しくも、ライト兄弟の有人飛行機が、
人類史上初めて空を飛んだ年でもあった。

1927年、東京帝国大学工学部航空学科を主席で卒業。
三菱内燃機製造、現在の三菱重工に入社後、
わずか5年で頭角をあらわし、設計主任となった。

1910年代から20年代にかけて、
飛行機は加速度的な進歩を遂げていた。
第一次世界大戦で初めて戦闘機が出現し、
従来の作戦行動や戦術・戦略が激変した。

大戦後、西洋列強の仲間入りを果たし、
1930年代、戦争の時代に突入していた日本は、
軍用機の国産化を目標に掲げていた。
航空機メーカー各社に製造企画競争を課して、
スピード、航続距離、上昇・下降性能、操縦性など、
過大なスペックをノルマとした。

軍が求めるシビアな戦闘能力の実現は、
必然的に、飛行機の性能そのものの向上を促した。
この時代に優秀な飛行機の開発を志すということは、
戦争に関わらざるを得ないということだった。

堀越二郎は、
そんな不幸な時代に生まれ、
太平洋戦争に間に合ってしまった、
飛行機づくりの天才だった。

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