古居利康 13年9月28日放送
その後の堀越二郎 ③
1952年、連合国と日本の間に
サンフランシスコ講和条約が結ばれ、
航空機の運行や製造の禁止が
一部緩和されることになった。
GHQは、当初日本の重工業を
根こそぎ無力化しようとした。
しかし、朝鮮戦争が勃発したことで、
日本の旧航空機メーカーに
連合国の軍用機の点検・修理をさせる
必要が生じた。
それと前後して民間航空会社が発足。
国内航路に米国製の旅客機が
就航するようになっていた。
1956年、GHQによる航空禁止令が
全面解除されると、日本人の手で
国産旅客機をつくろう、
という機運が高まっていった。
時代が、再び、
堀越二郎を求め始めていた。