絵と服と男たち⑦「ルイ14世のハイヒール」
ハイヒールなんかでよく歩けるものだと言う男は多い。
しかしその昔、ハイヒールは男物の靴だった。
イアサント・リゴーが描いたルイ14世の肖像画。
その中で彼は白いタイツで包んだ自慢の脚線美を、
ハイヒールでこれでもかとばかりに見せつけている。
特権階級にだけ許された深紅のヒールとリボン。
宝石が散りばめられた四角いバックル。
イケメンとは顔ではなく足が美しい男を意味した。
このとき彼は63歳。
オシャレは若者だけの特権ではない。
絵と服と男たち⑦「ルイ14世のハイヒール」
ハイヒールなんかでよく歩けるものだと言う男は多い。
しかしその昔、ハイヒールは男物の靴だった。
イアサント・リゴーが描いたルイ14世の肖像画。
その中で彼は白いタイツで包んだ自慢の脚線美を、
ハイヒールでこれでもかとばかりに見せつけている。
特権階級にだけ許された深紅のヒールとリボン。
宝石が散りばめられた四角いバックル。
イケメンとは顔ではなく足が美しい男を意味した。
このとき彼は63歳。
オシャレは若者だけの特権ではない。
絵と服と男たち⑧「シュナールの長ズボン」
今、私たちが着ているのは革命家の服である。
1789年のフランス革命。その中心となったのが、
サン・キュロット
と呼ばれる貧しい一般大衆だ。
『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』
という絵を見ると、彼らの服が今とかなり近いことがわかる。
サン・キュロットとは
半ズボンを履かない人
の意味。半ズボンで脚線美を見せびらかした貴族たちが、
庶民をバカにしてつけたあだ名だ。
不公平な身分制度に対する反抗の意味を込めて、
人々は長ズボンと踵の低い靴を履き続けた。
果たして数百年後、
ズボンの長さが逆転する日は来るのだろうか。
よっちん
北原白秋 1
詩人、北原白秋。
堀割で有名な福岡県の水郷、柳川に生まれる。
福岡県屈指の造り酒屋の長男として幼年期をすごし、
詩人への道を志した。
16歳のときに酒蔵が火事で焼失。
家業をついで立て直してほしいという父の願いを振りきり、
19歳で上京した。
そして24歳のときに、実家は破産する。
そんなとき、彼が詩にしたのは
みずからが捨てたふるさとのこと。
有明海の広大な干潟をのぞむ故郷の、
けだるく、美しく、鮮烈な色彩に満ちた風景と、
いとおしき人々への想いを描いた。
白秋26歳のときに刊行した詩集「思ひ出」。
出版記念会で、当時の権威・上田敏にはげしく賞賛された。
「筑後柳川の詩人北原白秋を崇拝する。」
白秋は、感激のあまり言葉を失い、泣いた。
ここに北原白秋は国民詩人としての一歩をふみ出した。
「思ひ出」を朗読する彼の声が、
70年以上の歳月をこえて、今ものこる。
その声にのこるイントネーションは、
彼の故郷の海の、やさしい波音のようにも聞こえる。
北原白秋 2
詩人、北原白秋。
30代の彼は、実家の破産で困窮していた。
葛飾区ののどかな村に居を構え、
つつましく暮らす彼の庭には、
毎日のように村の子どもたちが遊びにきた。
ある朝、妻がたたんだ蚊帳の中から、
蛍が出てくる。
それを庭の蓮の葉にとまらせていると、
いつものように遊びにくる子どもたち。
ふと思いついた白秋は、
ひとりの子どもの手のひらに
絵を描いてやった。
喜びの声を上げる子どもたち。
みんなの手や指に、金魚や花や、すずめの絵を描いた。
子どもたちが帰った後、
妻が「私にも描いてください」と言う。
彼は妻の小指の爪に、小さな蛍を描いてあげた。
お金はなくても、
村の子どもたちや妻との
無邪気でささやかな心のやりとり。
のちに、今も歌いつがれる
数々の童謡を書いてゆくことになる国民詩人の心のありようは、
このころの生活の中に生まれた。
tokitsu-kaze
北原白秋 3
詩人、北原白秋。
彼は生涯に、1200もの童謡を残した。
そのうち多くの曲が、
ひとつ年上の作曲家・山田耕筰とのコンビでつくられている。
「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、
時をこえて今も愛される歌は多い。
「からたちの花」もそのひとつ。
10歳で父を亡くし、印刷工場で働きながら苦学した山田耕筰。
工場でしごかれ、近くにあった、からたちの垣根にかくれて泣き、
酸っぱいその実を食べ空腹をしのいだ。
そんな耕筰の思い出を、白秋が詩にした。
白秋が故郷の小学校に通った道にも、
からたちの垣根があり、それは彼にとっての原風景だった。
ふたりの想いがとけあって、かたちとなったのだ。
耕筰が、言葉の1音に対して1つの音符をつけたこの曲は、
言葉の響きをやさしく伝える。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかったよ。
ふたりは仲がよかった。
耕筰の家でいっしょに酒を酌み交わし、
白秋が酔って、耕筰の坊主頭をペロリとなめたときも、
耕筰は笑っていたという。
そんなふたりが魂をひとつにしてできた歌をうたうとき、
私たちの魂も彼らとひとつになる。
北原白秋 4
詩人、北原白秋。
「赤い鳥」や「コドモノクニ」など多くの雑誌で、
投稿されてくる詩の選評を担当した。
作家・新美南吉も「赤い鳥」に投稿して来たひとり。
代用教員をしていた18才のときに書いた童謡「窓」が
白秋に選ばれる。
その後「ごんぎつね」などの名作を書いた南吉のスタートラインとなった。
今年2月に旅立った詩人、まど・みちおも、
公務員だった25才のときに「コドモノクニ」に投稿し、
白秋が特選にした。
その後「ぞうさん」「ふしぎなポケット」などの
名曲をつくった詩人の才能は、ここに初めて見出された。
白秋はほかにも、萩原朔太郎や室生犀星を世に送り出し、
たくさんの一般の子どもたちの作品を丁寧に見て、
よいところをほめたたえた。
蛍とすずめ、そして子どもの無垢な心を愛した詩人、
北原白秋。
彼のやさしいまなざしは、多くの門下生に受けつがれ、
その歌をうたう今の子どもたちにも、きっとつながっている。
純粋であることの尊さを信じる気持ちは、
今の私たちの心のなかのどこかにも、生きている。
fernando neves
「サンダルの季節」 ハワイの人の
ワールドカップもいよいよ終盤のブラジルに、
世界のセレブが愛用するビーチサンダルのブランドがある。
ハワイアナス。ハワイの人ような、という意味。
ブラジルポルトガル語での発音は、アヴァイアーナス。
1962年、ハワイアナス誕生。
日系人が履いていた布とわらでできた
「草鞋」にヒントを得た。
ソールにつけられたデコボコは、
お米のカタチをデザインしたもの。
当時、ハワイは多くの人にとって夢のような場所だった。
太陽が燦々とふりそそぐ、パラダイス。
波乗りとアップビートな気分。
日本とブラジルとハワイ。
3つの文化が、世界で愛されるサンダルを生んだ。
dimsumandsiomai
「サンダルの季節」 安いサンダル・松任谷由実
「安いサンダルをはいてた」
松任谷由実のデステニーの歌詞の一節。
1979年発売のアルバム「悲しいほどお天気」の収録曲だ。
松田聖子がデビューした年でもある。
自分の元から去った恋人を、
いつか見返すために、
どこに行くにも着飾っていた主人公。
でも、偶然再会した時には。
どうしてなの、
今日に限って、
安いサンダルをはいていた。
その油断、恋への執念のゆるみ。
だから結ばれない運命なのだと、
たった一行で描いてみせた
「サンダルの季節」 ギョサン・松下善彦
ここ数年ブームになっているサンダル。「ギョサン」。
小笠原の漁師が履いている「漁業従事者サンダル」だ。
鼻緒と本体が、樹脂で一体成型されている。
ソールが厚く、独特のカーブがある。
砂浜を歩きやすい、船の上でも滑りにくい。
この「ギョサン」を有名にした男が小田原にいる。
創業大正7年、マツシタ靴店の松下善彦。
ダイビングを趣味にする友人から
小笠原にしかない「ギョサン」の話を聞いて興味を持った。
ためしに店に置いてみた。しかし、売れない。
茶色やベージュなど地味な色のバリエーションしかなかったからだ。
綺麗な色でつくれば、漁業関係者だけでなく、
海のレジャーの愛好家にも広がるのではないか。
経営者である父の反対を押し切って、
ブルー、白、黒の3色、240足を特別注文で仕入れた。
ネットオークションに出品、ホームページを充実させ、
ギョサンのいわれや、小笠原の歴史を紹介した。
サイトを見たタレントが買いにきてくれた
ドラマで使ってもらうようになった。
松下自身も、ラジオに出演するなど、積極的にプロモーションを行った。
小笠原で生まれた「ギョサン」は、今、日本全国で親しまれている。
「サンダルの季節」 ヘップサンダル・オードリー
オードリー・ヘップバーンが映画で履いたサンダル。
それは世界中の女性の心をとらえ、
ヘップ・サンダルと呼ばれた。
かかとのストラップがなく、
甲のところが覆われたサンダル。
今で言うミュールだ。
かのジバンシイは、彼女をミューズと讃えた。
理想の女性像を体現し、想像力を刺激する、
あらゆる魅力を兼ね備えている。
私は建物を建てて、景観を広げなければならなかった。
今見ると、ただの「つっかけサンダル」だけれども、
オードリー・ヘップバーンが履いていたからこそ、
憧れのサンダルとなった。
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