2014 年 7 月 のアーカイブ

佐藤理人 14年7月13日放送

140713-07

絵と服と男たち⑦「ルイ14世のハイヒール」

ハイヒールなんかでよく歩けるものだと言う男は多い。
しかしその昔、ハイヒールは男物の靴だった。

イアサント・リゴーが描いたルイ14世の肖像画。
その中で彼は白いタイツで包んだ自慢の脚線美を、
ハイヒールでこれでもかとばかりに見せつけている。

特権階級にだけ許された深紅のヒールとリボン。
宝石が散りばめられた四角いバックル。
イケメンとは顔ではなく足が美しい男を意味した。

このとき彼は63歳。
オシャレは若者だけの特権ではない。

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佐藤理人 14年7月13日放送

140713-08

絵と服と男たち⑧「シュナールの長ズボン」

今、私たちが着ているのは革命家の服である。

1789年のフランス革命。その中心となったのが、

 サン・キュロット

と呼ばれる貧しい一般大衆だ。

 『サン・キュロットの扮装をした歌手シュナール』
という絵を見ると、彼らの服が今とかなり近いことがわかる。

サン・キュロットとは

 半ズボンを履かない人

の意味。半ズボンで脚線美を見せびらかした貴族たちが、
庶民をバカにしてつけたあだ名だ。

不公平な身分制度に対する反抗の意味を込めて、
人々は長ズボンと踵の低い靴を履き続けた。

果たして数百年後、
ズボンの長さが逆転する日は来るのだろうか。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-01
よっちん
北原白秋 1

詩人、北原白秋。
堀割で有名な福岡県の水郷、柳川に生まれる。
福岡県屈指の造り酒屋の長男として幼年期をすごし、
詩人への道を志した。

16歳のときに酒蔵が火事で焼失。
家業をついで立て直してほしいという父の願いを振りきり、
19歳で上京した。
そして24歳のときに、実家は破産する。

そんなとき、彼が詩にしたのは
みずからが捨てたふるさとのこと。
有明海の広大な干潟をのぞむ故郷の、
けだるく、美しく、鮮烈な色彩に満ちた風景と、
いとおしき人々への想いを描いた。

白秋26歳のときに刊行した詩集「思ひ出」。
出版記念会で、当時の権威・上田敏にはげしく賞賛された。
「筑後柳川の詩人北原白秋を崇拝する。」

白秋は、感激のあまり言葉を失い、泣いた。
ここに北原白秋は国民詩人としての一歩をふみ出した。

「思ひ出」を朗読する彼の声が、
70年以上の歳月をこえて、今ものこる。
その声にのこるイントネーションは、
彼の故郷の海の、やさしい波音のようにも聞こえる。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-021

北原白秋 2

詩人、北原白秋。
30代の彼は、実家の破産で困窮していた。
葛飾区ののどかな村に居を構え、
つつましく暮らす彼の庭には、
毎日のように村の子どもたちが遊びにきた。

ある朝、妻がたたんだ蚊帳の中から、
蛍が出てくる。
それを庭の蓮の葉にとまらせていると、
いつものように遊びにくる子どもたち。

ふと思いついた白秋は、
ひとりの子どもの手のひらに
絵を描いてやった。
喜びの声を上げる子どもたち。
みんなの手や指に、金魚や花や、すずめの絵を描いた。

子どもたちが帰った後、
妻が「私にも描いてください」と言う。
彼は妻の小指の爪に、小さな蛍を描いてあげた。

お金はなくても、
村の子どもたちや妻との
無邪気でささやかな心のやりとり。

のちに、今も歌いつがれる
数々の童謡を書いてゆくことになる国民詩人の心のありようは、
このころの生活の中に生まれた。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-03
tokitsu-kaze
北原白秋 3

詩人、北原白秋。
彼は生涯に、1200もの童謡を残した。
そのうち多くの曲が、
ひとつ年上の作曲家・山田耕筰とのコンビでつくられている。
「この道」「ペチカ」「待ちぼうけ」など、
時をこえて今も愛される歌は多い。

「からたちの花」もそのひとつ。
10歳で父を亡くし、印刷工場で働きながら苦学した山田耕筰。
工場でしごかれ、近くにあった、からたちの垣根にかくれて泣き、
酸っぱいその実を食べ空腹をしのいだ。
そんな耕筰の思い出を、白秋が詩にした。

白秋が故郷の小学校に通った道にも、
からたちの垣根があり、それは彼にとっての原風景だった。
ふたりの想いがとけあって、かたちとなったのだ。
耕筰が、言葉の1音に対して1つの音符をつけたこの曲は、
言葉の響きをやさしく伝える。

 からたちのそばで泣いたよ。
 みんなみんなやさしかったよ。

ふたりは仲がよかった。
耕筰の家でいっしょに酒を酌み交わし、
白秋が酔って、耕筰の坊主頭をペロリとなめたときも、
耕筰は笑っていたという。
そんなふたりが魂をひとつにしてできた歌をうたうとき、
私たちの魂も彼らとひとつになる。

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道山智之 14年7月12日放送

140712-04

北原白秋 4

詩人、北原白秋。
「赤い鳥」や「コドモノクニ」など多くの雑誌で、
投稿されてくる詩の選評を担当した。

作家・新美南吉も「赤い鳥」に投稿して来たひとり。
代用教員をしていた18才のときに書いた童謡「窓」が
白秋に選ばれる。
その後「ごんぎつね」などの名作を書いた南吉のスタートラインとなった。

今年2月に旅立った詩人、まど・みちおも、
公務員だった25才のときに「コドモノクニ」に投稿し、
白秋が特選にした。
その後「ぞうさん」「ふしぎなポケット」などの
名曲をつくった詩人の才能は、ここに初めて見出された。

白秋はほかにも、萩原朔太郎や室生犀星を世に送り出し、
たくさんの一般の子どもたちの作品を丁寧に見て、
よいところをほめたたえた。

蛍とすずめ、そして子どもの無垢な心を愛した詩人、
北原白秋。
彼のやさしいまなざしは、多くの門下生に受けつがれ、
その歌をうたう今の子どもたちにも、きっとつながっている。
純粋であることの尊さを信じる気持ちは、
今の私たちの心のなかのどこかにも、生きている。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-01
fernando neves
「サンダルの季節」 ハワイの人の

ワールドカップもいよいよ終盤のブラジルに、
世界のセレブが愛用するビーチサンダルのブランドがある。
ハワイアナス。ハワイの人ような、という意味。
ブラジルポルトガル語での発音は、アヴァイアーナス。

 1962年、ハワイアナス誕生。
 日系人が履いていた布とわらでできた
 「草鞋」にヒントを得た。
 ソールにつけられたデコボコは、
 お米のカタチをデザインしたもの。

 
当時、ハワイは多くの人にとって夢のような場所だった。
太陽が燦々とふりそそぐ、パラダイス。
波乗りとアップビートな気分。

日本とブラジルとハワイ。
3つの文化が、世界で愛されるサンダルを生んだ。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-02
dimsumandsiomai
「サンダルの季節」 安いサンダル・松任谷由実

「安いサンダルをはいてた」
松任谷由実のデステニーの歌詞の一節。
1979年発売のアルバム「悲しいほどお天気」の収録曲だ。
松田聖子がデビューした年でもある。
自分の元から去った恋人を、
いつか見返すために、
どこに行くにも着飾っていた主人公。
でも、偶然再会した時には。

 どうしてなの、
 今日に限って、
 安いサンダルをはいていた。

 
その油断、恋への執念のゆるみ。
だから結ばれない運命なのだと、
たった一行で描いてみせた

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-03

「サンダルの季節」 ギョサン・松下善彦

ここ数年ブームになっているサンダル。「ギョサン」。
小笠原の漁師が履いている「漁業従事者サンダル」だ。
鼻緒と本体が、樹脂で一体成型されている。
ソールが厚く、独特のカーブがある。
砂浜を歩きやすい、船の上でも滑りにくい。
この「ギョサン」を有名にした男が小田原にいる。
創業大正7年、マツシタ靴店の松下善彦。
ダイビングを趣味にする友人から
小笠原にしかない「ギョサン」の話を聞いて興味を持った。
ためしに店に置いてみた。しかし、売れない。
茶色やベージュなど地味な色のバリエーションしかなかったからだ。

 綺麗な色でつくれば、漁業関係者だけでなく、
 海のレジャーの愛好家にも広がるのではないか。

 
経営者である父の反対を押し切って、
ブルー、白、黒の3色、240足を特別注文で仕入れた。
ネットオークションに出品、ホームページを充実させ、
ギョサンのいわれや、小笠原の歴史を紹介した。
サイトを見たタレントが買いにきてくれた
ドラマで使ってもらうようになった。
松下自身も、ラジオに出演するなど、積極的にプロモーションを行った。
小笠原で生まれた「ギョサン」は、今、日本全国で親しまれている。

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大友美有紀 14年7月6日放送

140706-04

「サンダルの季節」 ヘップサンダル・オードリー

オードリー・ヘップバーンが映画で履いたサンダル。
それは世界中の女性の心をとらえ、
ヘップ・サンダルと呼ばれた。
かかとのストラップがなく、
甲のところが覆われたサンダル。
今で言うミュールだ。
かのジバンシイは、彼女をミューズと讃えた。

 理想の女性像を体現し、想像力を刺激する、
 あらゆる魅力を兼ね備えている。
 私は建物を建てて、景観を広げなければならなかった。

 

今見ると、ただの「つっかけサンダル」だけれども、
オードリー・ヘップバーンが履いていたからこそ、
憧れのサンダルとなった。

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