2014 年 9 月 のアーカイブ

大友美有紀 14年9月7日放送

140907-05
Caelio
「動物園の人々」京都大学霊長類研究所・松沢哲朗(まつざわてつろう)

チンパンジーの運動場にそびえ立つタワー。
こういった構造物をつくることは、
日本の最近の動物園の傾向だ。

きっけは、京都大学霊長類研究所。
1978年からチンパンジーの知性研究「アイ・プロジェクト」に
携わる松沢哲朗は、野生のチンパンジーの生態研究も行っていた。
野性では、彼らは1日の半分以上を樹の上で暮らす。

 チンパンジーがチンパンジーらしく暮らせるよう、
 「太陽があり、土があり、緑があり、仲間がいる暮らし」を
 目指して、高さ15mのタワーをつくった。
 内部には、高低差を利用した還流式の小川、
 大小さまざまな木々が生育している。

 
心配していた落下事故や脱走もなかった。
タワーを導入した動物園のチンパンジーたちは
喜んで使っているようだ。
松沢はチンパンジーの研究を通じて、人間の心や進化的起源を探り、
「比較認知科学」という新しい研究領域を開拓した。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-06
ちょめ@しゅんchang,
「動物園の人々」上野動物園・土居利光

最近の動物園では、動物の行動や生態を尊重した飼育方法や
暮らす場所の研究が、とても盛んになってきた。
東京都の上野動物園では、
1996年にすでに「ゴリラ・トラの住む森」を完成させている。
ゴリラ、トラが自然に近い状態で過ごせるよう、
それぞれの生育地に合わせた植栽をおこなっている。
開園130年を迎えた年、園長の土居利光は上野動物園の
原点について触れている。
 
  1873年の建議書には、動物園として選定した場所が
  動植物の生息、生育に適した場所である、と延べられていた。
  実はこれが動物園づくりの原点なのではないだろうか。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-07

「動物園の人々」多摩動物園・林寿郎(はやしじゅろう)

車で動物たちに近づいていくサファリパーク。
その元祖はなんと、多摩動物公園のライオンバス。
1964年、当時の上野動物園園長・林樹郎が発想した。

 観客が檻の中の動物を見るのではなく、
 観客が檻の中に入って動物を見るのは、
 どうか。

 
このアイデアがヨーロッパでサファリパークとなり、
1970年代に日本に逆輸入されたのだった。

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大友美有紀 14年9月7日放送

140907-08

「動物園の人々」北九州到津(いとうづ)の森公園・岩野敏郎(いわのとしろう)

閉園寸前まで追い込まれて復活した旭山動物園のように、
再生した動物園が北九州にある。到津の森公園。
園長の岩野敏郎は旭山の元園長小菅とは、長年の盟友だった。
1973年、岩野は獣医師として動物園の経営母体だった西日本鉄道に入社。
97年には園長に。赤字続きだった園をたてなおすぞ、
と意欲に燃えていた矢先に、閉園を告げられる。
その後、市民の署名運動が起こり、市が動物園を受け継ぐことになる。
岩野はその時には部外者だ。動物園の構想を相談されることもない。
しかし、開園まで半年、というタイミングで園長を打診される。
もうハードはできてしまっている。
 
 ないものねだりをしても始まらない。
 大事なのは飼育員の精神性、つまりソフトです。
 ハードからハートをとれば濁点が2つ残るだけ。
 ハードの中に自分たちの思いがなければダメなんです。

到津の森公園の理念は「市民と自然を結ぶ窓口」。
今日もたくさんの人たちが足を運ぶ。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-01
Kaiser Acore
ウォーレン・バフェットの教え1

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

証券会社を営んでいた父の影響か、
投資への才能は、小さなころから芽生えていた。
6歳のときには、コーラ6本を25セントで仕入れ、
1本5セントで売った。
中学生になると、新聞配達を始める。
といっても、汗水流して走り回るわけではない。
50人の子供を集め、時給50セントで雇い、事業として経営した。
そして高校を卒業するころには、1万ドルの資金ができた。

その少年はやがて、経営する投資会社の株価を
45年で82万%も上昇させ、天才と呼ばれるようになった。
ウォーレン・バフェットは言う。

 ゲームに勝つには、とにかく先手を取ることだ。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-02
chuckp
ウォーレン・バフェットの教え2

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼は偉大な投資家だが、倹約家でもある。
それなりの資産を手に入れたのに、
結婚してしばらく暮らしたのは、借家だった。
家族ができると一戸建てを購入したが、価格は3万1500ドル。
決して高い金額ではない。
しかしバフェットは考える。
この金額を複利で運用した場合、
10年後、20年後にはいくらになるか、ということを。
彼の、こんな言葉がある。

  「本当に私はこの散髪に30万ドルを費やしたいだろうか」

せいぜい300ドルの散髪代だって、
運用すればいつか、30万ドルになる可能性だってある。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-03
Boa-sorte&Careca
ウォーレン・バフェットの教え3

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼が投資の世界で成功できたのは、
幅広い業種の中で、
自分が理解できる分野とそうでない分野を
はっきり区別したからだ、と言われる。
たとえ人気のある銘柄でも、
自分の考えが及ばない分野であれば
一切、手を出さなかった。それは、
「よその連中のほうに有利なゲームではプレイしたくない」
という哲学。
彼の、こんな言葉がある。

  「ポーカーをやり始めて20分たっても、
   まだ誰がカモかわからない人は、自分がカモなのだ」

ただ世間を眺めていても、それは1ドルにもならない。

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佐藤延夫 14年9月6日放送

140906-04
Collinulness
ウォーレン・バフェットの教え4

アメリカの投資家、ウォーレン・バフェット。

彼が長年暮らすのは、ウォール街ではなく
生まれ故郷の、ネブラスカ州オマハという地方都市だ。
投資を生業にする人間が、ニューヨーク以外に住むのは
本来、あり得ないこと。
しかしバフェットは、変化をリスクと捉えた。
ウォール街は熱狂を生み、
ときにそれは、人から冷静な判断力を奪うと考えた。

情報や人の動きが少ない街で暮らす。
おかげで1日に8時間も10時間も本を読み、
思索にふけることができた。

「投資の世界では、好きな球が来るまでいつまでも待つことができる。
 そして野手が眠ってしまったのを見計らってから球を打つことができる」

これが彼の哲学だ。

Oracle of Omaha〜オマハの賢人と言われる理由が、よくわかる。

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