「縁の下の力持ち」前島密(まえじまひそか)
年賀状は届きましたか。
消費税額の変更で、1円切手が貼ってある
葉書、ありませんか。
その切手に描かれている人物は、
日本近代郵便の父、前島密。
縁の下の力持ちになることを厭うな。
人のためによかれと願う心を常に持てよ。
これは、前島密の信条。
1円切手はまさに縁の下の力持ち。
日本の郵便事業誕生をささえた人物は、
今も郵便をささえている。
「縁の下の力持ち」前島密(まえじまひそか)
年賀状は届きましたか。
消費税額の変更で、1円切手が貼ってある
葉書、ありませんか。
その切手に描かれている人物は、
日本近代郵便の父、前島密。
縁の下の力持ちになることを厭うな。
人のためによかれと願う心を常に持てよ。
これは、前島密の信条。
1円切手はまさに縁の下の力持ち。
日本の郵便事業誕生をささえた人物は、
今も郵便をささえている。
「母の言葉」前島密(まえじまひそか)
前島密は、越後国の生まれ。幼名を房五郎という。
幼い時に父を亡くし、医者である叔父の世話になっていた。
叔父の家では、医書に接し、薬剤の調合や患者の扱いなどを
見よう見まねで覚えた。漢詩や俳諧も学んだ。
ある時、夕暮れの枯れ木にカラスがとまっているのを見て、
寂寞の趣を感じ、句を詠んだ。
夕鴉(ゆうがらす) しょんぼりとまる 冬木立
俳句の席でこれを披露すると大いにほめられ、
賞品ももらった。
帰宅すると母は居住まいを正して語った。
幼くして書を理解しほめられている者も、
成長するにつけ凡庸となり笑われてしまうこともあります。
今日のことも、同じように、あなたの心に自負を生じさせ
いつか過ちを起こすのではないかと心配です。
この言葉を前島は、生涯の訓戒にしたという。
「ペリー来航」前島密(まえじまひそか)
日本近代郵便の父、前島密は10代の頃、
医学、蘭学を学ぶために江戸に出た。
そして、19歳の時、ペリーが浦賀に入港する。
当時日本は、外国に対する防衛は
ほとんどできていなかった。
砲台や大砲の建造に関して議論されていても、
その実際の方法を知る人は少なかった。
長崎に行き、旧来の砲台を見たいと思った。
外国船が多く寄港する大阪にも立ち寄り、
砲台の建築計画の参考にしようと考えた。
旅費の足りないところは野宿で補う。むしろ野宿によって、
体力を鍛えようと計画した。
越後にもどり、北陸道、山陰道、から下関へ。
九州の北岸、西岸を経て長崎へ。
砲台見学をして、肥後、日向、豊後へ。
佐賀関から海を渡り伊予、讃岐、紀伊へ。
伊勢から三河、東海道を通って伊豆下田に至り、江戸へ戻る。
西日本をほぼ一周する大旅行にもかかわらず、房五郎は反省する。
いたずらに血気に駆られて妄動せしに過ぎなかった。
見聞の結果を当局に提言しようと考えていた。
だが、一介の少年の意見が取り入れられる見込みなどない。
もっと自分には学問が必要だと、痛感したのだった。
「密という名」前島密(まえじまひそか)
前島密は、幼名は房五郎、
そののちに、巻退蔵を名乗り、
前島家を相続したあとは、来輔となり、密と名を変えている。
改名の際の文字の出典は、朱子の『中庸章句』という書。
其の書は、始めに一理を言い、中頃転じて万事となり、
末にまたがっして一理となる。
之を放てば、すなわち六合(りくごう)にわたり、
之を巻けば、すなわち密に退蔵し、
その味はひ窮まりなし。
当時の知識人にとって『中庸章句』は初学の書であり、
これは巻頭の文。
聡明であった少年・房五郎は、この書にとても惹かれていた。
「郵便事業のスタート」前島密(まえじまひそか)
日本近代郵便の父・前島密は郵便事業が実際にスタートする際、
実は、日本にはいなかった。
従来あった飛脚便をもとに郵便事業を官業として行うことを
建議にしたのち、イギリス出張を命じられた。
前島の外遊中に郵便事業はスタートする。
事業を任ぜられていたのは浜口儀兵衛。
イギリスの郵便事業を調査してきた前島は、
帰京すると浜口にその内容を語ろうとした。
が、浜口は、前島の話に興味を持たない。
当時、国政に関わる人間のなかには、
金銭を扱う業務に抵抗を感じるものもいた。
浜口も、そういった人間のひとりだった。
郵便なんぞはむかしから飛脚がしてきた商売だから、
成績が良ければ、元々通り彼らの営業とさした方が
よかろうと言って居る。
それで私は、自分の外には適任者がいないと思った。
前島は意を決し郵便事業の長官に任ぜられるように請願した。
こうして日本近代郵便の父となったのだ。
「漢字廃止論」前島密(まえじまひそか)
日本近代郵便の父・前島密は、
西洋諸国の様に音票文字を使えば、学問の修得も
容易になると考えていた。
日本語の文字には平仮名、カタカナ、漢字の3種類があり、
学問の基礎になる文字を覚えるのに時間がかかってしまうからだ。
将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之儀」という建議書を
提出したこともあった。
国家の大本は国民の教育にあり、
その教育はあまねく国民に施さなければならず、
普及させるにはなるべく簡易なる文字文章を
用いなければならぬ。
のちに郵便事業が軌道にのると、全く漢字を用いない仮名書き新聞
「まいにち ひらがな しんぶんし」を刊行した。
「電気の姿」前島密(まえじまひそか)
前島密は郵便と電信、電話の事業は統括すべきだと考えていた。
特に電気については早くから強い興味を持っていた。
ある日、電気の本質の夢を見る。
それは果てしない虚無の世界にうかぶ
白衣の観音菩薩蔵のような女性。
右手を天に向け、左手は大地を慈しむような姿。
眉間から屈曲光線を発射し、半身は雲の中で明滅している。
たまたま夢幻の間に現れたる電気の幻影ならん
その姿を友人の画家に描かせ、広く世に知らしめた。
電気、通信にたいする強烈な思いだ。
nicolacassa
「郵便の語源」前島密(まえじまひそか)
「郵便」という言葉は、前島密の造語と思われている。
しかし、「郵」とは元来「宿場」のこと。
「駅」と同じように公用文書の送り届けも行っていた。
駅には馬偏がついている。
中国では騎馬で送り届けることを駅逓(えきてい)。
徒歩で送り届けることを郵逓(ゆうてい)と言った。
江戸時代の漢学者は飛脚便のことを「郵」の字を使って、
郵便と呼ぶこともあった。それを前島が採用した。
はがきも「はしがき」から来た言葉だが、
葉っぱの葉に、書の字の葉書に決めたのは、前島だ。
葉書なる名称を付すること
言葉において知りやすく
意味においても的を得ている。
覚えやすく、わかりやすく、
そして親しまれやすく。
日本の郵便事業は拡大していった。
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