2015 年 1 月 4 日 のアーカイブ

大友美有紀 15年1月4日放送

150104-01

「縁の下の力持ち」前島密(まえじまひそか)

年賀状は届きましたか。
消費税額の変更で、1円切手が貼ってある
葉書、ありませんか。
その切手に描かれている人物は、
日本近代郵便の父、前島密。

 縁の下の力持ちになることを厭うな。
 人のためによかれと願う心を常に持てよ。

これは、前島密の信条。
1円切手はまさに縁の下の力持ち。
日本の郵便事業誕生をささえた人物は、
今も郵便をささえている。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-02

「母の言葉」前島密(まえじまひそか)

前島密は、越後国の生まれ。幼名を房五郎という。
幼い時に父を亡くし、医者である叔父の世話になっていた。
叔父の家では、医書に接し、薬剤の調合や患者の扱いなどを
見よう見まねで覚えた。漢詩や俳諧も学んだ。
ある時、夕暮れの枯れ木にカラスがとまっているのを見て、
寂寞の趣を感じ、句を詠んだ。

 夕鴉(ゆうがらす) しょんぼりとまる 冬木立

俳句の席でこれを披露すると大いにほめられ、
賞品ももらった。
帰宅すると母は居住まいを正して語った。

 幼くして書を理解しほめられている者も、
 成長するにつけ凡庸となり笑われてしまうこともあります。
 今日のことも、同じように、あなたの心に自負を生じさせ
 いつか過ちを起こすのではないかと心配です。

 
この言葉を前島は、生涯の訓戒にしたという。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-03

「ペリー来航」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父、前島密は10代の頃、
医学、蘭学を学ぶために江戸に出た。
そして、19歳の時、ペリーが浦賀に入港する。
当時日本は、外国に対する防衛は
ほとんどできていなかった。
砲台や大砲の建造に関して議論されていても、
その実際の方法を知る人は少なかった。

長崎に行き、旧来の砲台を見たいと思った。
外国船が多く寄港する大阪にも立ち寄り、
砲台の建築計画の参考にしようと考えた。
旅費の足りないところは野宿で補う。むしろ野宿によって、
体力を鍛えようと計画した。

越後にもどり、北陸道、山陰道、から下関へ。
九州の北岸、西岸を経て長崎へ。
砲台見学をして、肥後、日向、豊後へ。
佐賀関から海を渡り伊予、讃岐、紀伊へ。
伊勢から三河、東海道を通って伊豆下田に至り、江戸へ戻る。
西日本をほぼ一周する大旅行にもかかわらず、房五郎は反省する。

 いたずらに血気に駆られて妄動せしに過ぎなかった。

見聞の結果を当局に提言しようと考えていた。
だが、一介の少年の意見が取り入れられる見込みなどない。
もっと自分には学問が必要だと、痛感したのだった。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-04

「密という名」前島密(まえじまひそか)

前島密は、幼名は房五郎、
そののちに、巻退蔵を名乗り、
前島家を相続したあとは、来輔となり、密と名を変えている。
改名の際の文字の出典は、朱子の『中庸章句』という書。

 其の書は、始めに一理を言い、中頃転じて万事となり、
 末にまたがっして一理となる。
 之を放てば、すなわち六合(りくごう)にわたり、
 之を巻けば、すなわち密に退蔵し、
 その味はひ窮まりなし。

当時の知識人にとって『中庸章句』は初学の書であり、
これは巻頭の文。
聡明であった少年・房五郎は、この書にとても惹かれていた。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-05

「郵便事業のスタート」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父・前島密は郵便事業が実際にスタートする際、
実は、日本にはいなかった。
従来あった飛脚便をもとに郵便事業を官業として行うことを
建議にしたのち、イギリス出張を命じられた。

前島の外遊中に郵便事業はスタートする。
事業を任ぜられていたのは浜口儀兵衛。
イギリスの郵便事業を調査してきた前島は、
帰京すると浜口にその内容を語ろうとした。
が、浜口は、前島の話に興味を持たない。
当時、国政に関わる人間のなかには、
金銭を扱う業務に抵抗を感じるものもいた。
浜口も、そういった人間のひとりだった。

 郵便なんぞはむかしから飛脚がしてきた商売だから、
 成績が良ければ、元々通り彼らの営業とさした方が
 よかろうと言って居る。
 それで私は、自分の外には適任者がいないと思った。

前島は意を決し郵便事業の長官に任ぜられるように請願した。
こうして日本近代郵便の父となったのだ。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-06

「漢字廃止論」前島密(まえじまひそか)

日本近代郵便の父・前島密は、
西洋諸国の様に音票文字を使えば、学問の修得も
容易になると考えていた。
日本語の文字には平仮名、カタカナ、漢字の3種類があり、
学問の基礎になる文字を覚えるのに時間がかかってしまうからだ。

将軍徳川慶喜に「漢字御廃止之儀」という建議書を
提出したこともあった。

  国家の大本は国民の教育にあり、
  その教育はあまねく国民に施さなければならず、
  普及させるにはなるべく簡易なる文字文章を
  用いなければならぬ。

  
のちに郵便事業が軌道にのると、全く漢字を用いない仮名書き新聞
「まいにち ひらがな しんぶんし」を刊行した。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-07

「電気の姿」前島密(まえじまひそか)

前島密は郵便と電信、電話の事業は統括すべきだと考えていた。
特に電気については早くから強い興味を持っていた。
ある日、電気の本質の夢を見る。
それは果てしない虚無の世界にうかぶ
白衣の観音菩薩蔵のような女性。
右手を天に向け、左手は大地を慈しむような姿。
眉間から屈曲光線を発射し、半身は雲の中で明滅している。

  たまたま夢幻の間に現れたる電気の幻影ならん

その姿を友人の画家に描かせ、広く世に知らしめた。
電気、通信にたいする強烈な思いだ。

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大友美有紀 15年1月4日放送

150104-08
nicolacassa
「郵便の語源」前島密(まえじまひそか)

「郵便」という言葉は、前島密の造語と思われている。
しかし、「郵」とは元来「宿場」のこと。
「駅」と同じように公用文書の送り届けも行っていた。
駅には馬偏がついている。
中国では騎馬で送り届けることを駅逓(えきてい)。
徒歩で送り届けることを郵逓(ゆうてい)と言った。
江戸時代の漢学者は飛脚便のことを「郵」の字を使って、
郵便と呼ぶこともあった。それを前島が採用した。
はがきも「はしがき」から来た言葉だが、
葉っぱの葉に、書の字の葉書に決めたのは、前島だ。
 
 葉書なる名称を付すること
 言葉において知りやすく
 意味においても的を得ている。

 
覚えやすく、わかりやすく、
そして親しまれやすく。
日本の郵便事業は拡大していった。

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