母を生きた人 マリア・テレジア
「子供は何人いても多すぎることはないわ」
かつてそう言ったのは「女帝」マリア・テレジア。
マリー・アントワネットら16人の子をもうけ、
政略結婚によって国を守ろうとした彼女らしい。
だが、彼女が暮らした宮殿を訪ねると印象が変わる。
子供たちの絵を飾った部屋。
親子手作りの飾り付けが残る部屋。
そこには大家族の笑い声があふれていたのだろう。
「子供は何人いても多すぎることはないわ」
ひとりの母親の言葉として聞くと、
また違った思いが伝わってくる。
母を生きた人 マリア・テレジア
「子供は何人いても多すぎることはないわ」
かつてそう言ったのは「女帝」マリア・テレジア。
マリー・アントワネットら16人の子をもうけ、
政略結婚によって国を守ろうとした彼女らしい。
だが、彼女が暮らした宮殿を訪ねると印象が変わる。
子供たちの絵を飾った部屋。
親子手作りの飾り付けが残る部屋。
そこには大家族の笑い声があふれていたのだろう。
「子供は何人いても多すぎることはないわ」
ひとりの母親の言葉として聞くと、
また違った思いが伝わってくる。
fred baby
母を生きた人 オードリー・ヘップバーン
銀幕の妖精オードリー・ヘップバーンが
映画より愛したもの。
それは、二人の息子と過ごす時間だった。
よき女優である前に、よき母であろうと努力した。
息子たちを毎日学校まで送り迎えし、
一夜漬けの勉強にも付き合った。
息子・ショーンが劇に出たときには、
台詞の覚え方を伝授した。
「夜、明かりを消す前に台詞を読むの。
それで朝、目を開けたときにもう一度読むのよ」
名女優のアドバイスを胸に、ショーンは完璧に役を演じた。
本番当日のオードリーは
仕事を入れずに劇を見に行っておきながら、
ショーンを動揺させないように遠くでそっと見守ったそうだ。
二人の息子にとってオードリーは、
ほかの誰にも演じることのできない
すばらしい母親だった。
audrey jotekonykodik
母を生きた人 オードリー・ヘップバーン
女優オードリー・ヘップバーンは、
自らの子育てが落ち着くと
今度はその愛情を世界中の恵まれない子供たちに注いだ。
わずか1ドルの報酬でユニセフ親善大使の役目を引き受けると、
深刻な食料危機に陥っていたエチオピアやソマリアなど十数カ国をめぐり、
63歳でこの世を去るまで国際社会に支援を訴え続けた。
訪れた先々でオードリーは子供たちを
そっと抱きしめ、手を握った。母親がそうするのと同じように。
そのうち、彼女のまわりには自然と子供たちが集まるようになった。
オードリーの息子・ショーンによれば、
ユニセフの活動は彼女にとって
「自分自身の傷ついた子供時代を癒すチャンスでもあった」という。
オードリーは6歳で父親に捨てられ、
10代で第二次世界大戦を経験している。
食べ物にも、愛情にも飢えていた幼少期。
そんな幼い頃の自分と貧困で苦しむ子供たちを
重ねあわせていたからこそ、
人一倍、支援活動にのめりこんでいったのだろう。
オードリーは晩年、こんな言葉を残している。
「愛は行動。言葉だけですんだことなど、一度だってなかったわ」
その言葉の通り、彼女は命をかけて行動した。
すべての恵まれない子供たちの母として。
彼女が亡くなって、今年で22年。
その強い想いは「オードリー・ヘップバーン児童基金」という支援団体に形を変えて、
今もなお子供たちを支え続けている。
vander84
母を生きた人 アガサ・クリスティ
イギリスの推理作家アガサ・クリスティは、
結婚、出産の後に遅咲きでデビューした。
29歳の時に、娘・ロザリンドが誕生。
母になった当時の喜びが自伝で綴られている。
ロザリンドは本当にとてもきれいな
赤ん坊であったと言わざるを得ない。
また、彼女はうんと小さい頃から陽気で、
きっぱりしたところがあったと思う。
かの名探偵エルキュール・ポワロの生みの親は、
子煩悩な母親でもあった。
母を生きた人 アガサ・クリスティ
20世紀を代表する推理作家、アガサ・クリスティ。
彼女が生み出した数多くの小説は世界中で翻訳され、
今もなお読み継がれている。
彼女は晩年に自伝も執筆した。それを読むと、
巧みに構成された小説の印象とは異なり、
母として、妻としての愛情溢れる日々が生き生きと綴られている。
特に印象的なのは娘・ロザリンドとのエピソード。
アガサは幼い娘を寝かしつけるために、
くまのぬいぐるみの大冒険を創作して毎晩話してあげたそうだ。
希代の女流作家のストーリーを独り占めできるなんて、うらやましい限り。
娘が11歳になった頃、アガサは考古学者のマックス・マローワンと出会う。
マックスが14歳も年下だったこともあり、再婚するかどうか悩んでいたアガサ。
当時、娘に相談した時の会話が自伝にも登場する。
「お母さんがまた結婚しても、あなたはかまわない?」
「いつかそうすると思ってたわ」
そう答えたロザリンドは、アガサによれば
「あらゆる可能性をいつも考慮している人」のようだったという。
子供なのに名探偵さながらの冷静さだ。
そんな娘に背中を押されて、アガサは再婚を決意。
二度目の結婚生活はとてもうまくいき、
85歳で亡くなるまで家族に囲まれて幸せに暮らしたそうだ。
そういえば、彼女の自伝の冒頭にはこんな一節がある。
人生の中で出会う最も幸福なことは、
幸せな子供時代を持つことである。
母を生きた人 石川啄木の母・カツ
石川啄木の母・カツは、
病弱な息子をとてもかわいがった。
そんな母の思い出を、啄木は歌で残している。
あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけ給ふ母の白髪(しらがみ)
子供には炊きたての温かいごはんを盛り、
自分は残り物のごはんにお湯をかけて食べる。
「母の愛」と呼ぶには照れくさいほど、
さりげない母のやさしさ。
決して特別なできごとではない。
けれど、こんなありふれた日々をあざやかに切り取ったからこそ、
啄木の歌は時代も国境も越えて
今も共感されているのかもしれない。
母の平凡な愛なくして、どんな天才も生まれない。
水葉
母を生きた人 石川啄木の母・カツ
石川啄木の母・カツは、
ご多分に漏れず嫁の節子と折り合いが悪かった。
間に挟まれた啄木としては、
さぞ居心地が悪かったのだろう。
思わず歌にしてしまうほどに。
猫を飼はばその猫がまた争ひの種となるらむかなしき我が家(いへ)
家庭を和やかにしようと猫を飼っても、
それがまた嫁姑問題となりかねないとは。
息子を愛する母のライバルは、今も昔も変わらない。
母を生きた人 石川啄木の母・カツ
石川啄木が母・カツのことを詠った、
あまりにも有名な歌がある。
たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩あるかず
ずっと変わらないと思っていた親が
ふとした瞬間、急に年老いて感じる。
そんな経験をした人は少なくないはずだ。
父親が職をなくして以来、
生活苦から家族を救えないままでいた啄木。
そのやるせなさは、人一倍だったろう。
年老いた母を想うその普遍的な感情は、
やがて世界中の言葉に翻訳されて詠い継がれている。
そんな天才歌人が最後まで願っていたこと。
それは、平凡な親孝行だった。
わが母の死ぬ日一日美(よ)き衣を着むと願へりゆるし給ふや
私の母が死ぬその日一日くらい、美しい服を着よう。
そう願うことをどうかお許しください。
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