お米の話 雲水のお粥
行く雲と流れる水のようにその地にとどまらず
修行をする行脚僧を、雲水という。
その雲水たちが欠かさず食べるのが、お粥。
その功徳は「粥有十利(しゅうゆうじり)」と言い、10個にものぼると言われている。
一、肌つやがよくなる
二、気力・体力が湧いてくる
三、老化を防ぎ若さを保つ
四、食欲を抑え、食べ過ぎない
…などなど。
お米をいただくのに一番シンプルな方法は
心とからだに一番シンプルで大事なことを教えてくれる。
お米の話 雲水のお粥
行く雲と流れる水のようにその地にとどまらず
修行をする行脚僧を、雲水という。
その雲水たちが欠かさず食べるのが、お粥。
その功徳は「粥有十利(しゅうゆうじり)」と言い、10個にものぼると言われている。
一、肌つやがよくなる
二、気力・体力が湧いてくる
三、老化を防ぎ若さを保つ
四、食欲を抑え、食べ過ぎない
…などなど。
お米をいただくのに一番シンプルな方法は
心とからだに一番シンプルで大事なことを教えてくれる。
cyclonebill
お米の話 隆慶一郎の握り飯
脚本家である隆慶一郎は小学生のころ、
夏休みになると毎年一人で長野市の祖父の家へ帰郷していた。
滞在中よく山へ登っていたのだが
道なりに登るのも飽きてしまい、大胆に林を分け入ってしまったある日。
ふと気づけばあたりはうっそうと茂る森の中で、
帰り道などまったくわからない。焦る少年に雨まで打ち付け、不安をあおる。
ポケットを漁ると昼に食べ残した握り飯がひとつ。
一口だけ噛み締め、もったいないので何度も噛んでいると、
米が甘いことをはじめて知った。落ち着きを取り戻し、
なんとか知っている道にたどり着いたのは夜も深くなったころ。
隆は言う。
うまい米とうまい味噌汁があれば何もいらない。
これはこの時の迷子の後遺症にちがいない。
お米の話 大阪の飯炊き仙人
大阪の大衆食堂で50年にわたり
ぴかぴかの銀シャリを炊き続けた村島孟(つとむ)は
人々から愛情をこめて「飯炊き仙人」と呼ばれた。
少年時代に終戦を迎え、食べるもののない時代を経験した。
もともとは料理人になりたかったという村島は、
大人になり名店と呼ばれる店をひたすら食べ歩き、
そして気づいた。
「一流の料亭でも、ご飯の味はイマイチじゃないか」と。
東京五輪の年に一念発起、脱サラして食堂を始めた。
おかずづくりはすべて妻にまかせ
自分は飯炊きに専念した。
毎朝4時になるとかまどに火を入れ、
上半身裸になり、ひたすら米を炊きつづけた。
仙人は、「匂いがつく」と言って魚も肉も包丁も触らない。
長年飯炊きにつかい続けた木しゃもじには
彼の手形がくっきり残っているという。
出来の悪いのが飯(めし)
まあまあなのがご飯、
最高に炊けたんが銀シャリや
そう語る飯炊き仙人の銀シャリを食べるために
1日500人もの人が店を訪れ、
かつて仙人が憧れた料亭の料理人たちも
その味を学ぶために通ったという。
お米の話 芦屋雁之助のおにぎり
山下清と言えば、ランニングシャツに短パン姿で
おむすびをおいしそうに頬張る姿だ。
そこで思い浮かべるのは、画伯本人ではなく
芦屋雁之助(がんのすけ)演じるドラマの中の
裸の大将ではないだろうか。
実は、晩年の芦屋雁之助は糖尿病を患っていた。
お米は食事制限の筆頭だ。
それでも笑顔でもりもりおむすびを食べ、
ファンからの差し入れのおむすびも
がっかりさせたくなくてきちんと食べたという。
彼が食べる素朴な塩むすびはなんとも美味しそうに見える。
闘病のつらさなど微塵も感じさせない
人としての魅力が味付けになっていたのかもしれない。
HiroshimaGab
お米の話 田植えにまつわる言い伝え
かつての日本の四季は、今よりもずっと
米づくりと密接につながっていた。
米づくりにまつわる言い伝えが
土地ごとにいくつも存在していた。
田植えに関しても、
五月の婚礼、八月の離れ月
という風習があった。
これは、旧暦の五月と八月に
婚礼をとり行なうのを避けるように、戒めたもの。
旧暦の五月は、田植えの最盛期。
婚礼に人手を出すどころではなく
しかも梅雨時に重なるとあって、
花嫁行列などしようものなら、晴れ着は台無しになる。
実に理にかなった言い伝えであった。
しかし今や旧暦の五月、今の暦で六月は、
「ジューンブライド」として婚礼の最盛期。
欧米の「ジューン」には梅雨などなく
日本にそのまま取り入れるのは
本来は無理がありそうなものだが、
そんな懸念もなんのその。
挙式場所の変化や空調の発達で
梅雨時の晴れ着の心配が減ったこともあるが、
なにより日本の農業人口が減り、
田植えの日取りとの兼ね合いを
気にする人が減ったということも、
普段は気づきもしないが、
実は大きな要因のように思える。
Emran Kassim
お米の話 振り米の言い伝え
お米が主食として行き渡るようになったのは、
第二次世界大戦中の配給米からだといわれている。
それまでは、麦や、アワ、ヒエなどで人々は食をつないできた。
そんな日本の農村に「振り米」という言い伝えが残っている。
重い病人が村にでると、よその村からひとにぎりの米を借りてきて、
竹の筒に入れて振って、耳元で米の音を聞かせていたのだ。
「ああ、がんばれば、米が食べられかもしれない」と
気力がでて生き延びるひともいれば、
亡くなっても安らかな顔をして冥土へ旅立てたという。
食べることは、生きることと言うが、
つやつやの白いお米は、日本人の生きる希望
そのものなのかもしれない。
お米の話 魯山人の質問
食通で知られる北大路魯山人が
料亭、星岡茶寮(ほしがおかさりょう)の顧問をしていた頃。
雇う料理人には、第一にこう聞いたという。
きみは飯が炊けるか?
ご飯も立派な料理と考えていた魯山人。
その面接は、とびきり厳しかったに違いない。
お米の話 八十八人の神様
子どもの頃、茶碗に一粒でもごはんが残っていたら、
「お米一粒には八十八人の神様が宿っているのだから、残さず食べるように。」
などと、たしなめられたことはないだろうか。
地域によって、神様の人数には諸説あるが
八十八人という数字の由来は、
米という字が、八十八という漢字からできていて
米の収穫までに八十八の工程があり、
手間暇かけた分だけ、神が宿るからだと言われている。
毎日のごはんが食卓に届くまでに、
作る人の手間と苦労と愛情がどれだけこめられているだろう。
そんな思いでごはん粒を見つめていたら、
お米そのものが神様ではないかと思えてくる。
きょうも、おいしいごはんを、ありがとうございます。
感謝しながらいただくと、ごはんはますますおいしくなる。
ドラえもんの作り方①「ポロンちゃん」
破滅だ!
1969年のある日、漫画家藤子・F・不二雄は、
そう叫びながら自宅の階段を駆け下りた。
新連載のアイデアが何ひとつ思い浮かばない。
焦燥感に駆られて廊下に足を踏み出した瞬間、
何か丸いものに躓いた。
ポロン♪
それは娘の起き上がりこぼし。人形が奏でる音に合わせて、
頭の中に散らばったパズルのピースが次々とハマっていく。
近所のどら猫。未来のロボット。
ポケットの中の秘密道具。タイムマシン。
パパ、ポロンちゃんを蹴飛ばしちゃダメッ!
娘の声で我に返ると、そこにはもうドラえもんがいた。
それから半世紀近くに渡り、
自分の発明が世界中の子供達を虜にすることなど、
彼はまだ知る由もなかった。
panDx1
ドラえもんの作り方②「少年の心」
子どものリアルな姿を描く。
それは漫画家にとって最も難しいことのひとつ。
目線の高さに気づかず、
つい子どもの姿をした大人を描いてしまう。
しかし「ドラえもん」の作者、
藤子・F・不二雄はそんな悩みとは無縁だった。
彼は執筆の合間を縫って、
三人の子どもたちにたくさんの本を読んであげた。
トムソーヤの冒険。ファーブル昆虫記。
子どもの目線で共に驚き、ワクワクすることで、
自分もまた一人の子どもに還ることができた。
彼のタイムマシンは引き出しの中ではなく、
本棚にあった。
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