Icely88
物語を愛した河合隼雄
心理学者・河合隼雄は言う。
心の病をかかえる患者さんが
治っていった話をそのまま書いたら、
都合のええ偶然が起こりすぎて
小説にならない。
でも、僕の患者さんが治っていくときには
奇跡のようなことがよく起きる。
こんなおもろいことないですよ。
世界は小説より
圧倒的に、都合がいい物語で
できているようだ。
Icely88
物語を愛した河合隼雄
心理学者・河合隼雄は言う。
心の病をかかえる患者さんが
治っていった話をそのまま書いたら、
都合のええ偶然が起こりすぎて
小説にならない。
でも、僕の患者さんが治っていくときには
奇跡のようなことがよく起きる。
こんなおもろいことないですよ。
世界は小説より
圧倒的に、都合がいい物語で
できているようだ。
Aureusbay
物語を愛した河合隼雄
心理学者・河合隼雄は、幼いころ、
ほかの子どもと行動するのが嫌で
幼稚園が嫌いだった。
でも担当の先生を大好きになり、
幼稚園に行くのが楽しみになった
しかし、ある日、
その先生は結婚し、
幼稚園を辞めてしまう。
大好きな先生のお別れのあいさつで
隼雄少年はかっこわるいと思いながらも涙が止まらない。
自己嫌悪に陥り、家に帰ってから、
母親の前であまり悲しそうな顔をしないでいたら、母親は言った。
「ほんとうに悲しいときは、男の子でも泣いてかまわない」
それでまた彼は泣いてしまった。
そのあと、遊びに来た同級生の男の子。
「今日は男の子でも泣いてるもんがいた」と冷やかすと
「ほんまに悲しいときは泣くやつのほうが偉いよ」と言い返した。
彼は幼いころから、自然と暮らしの中で
「こころ」との向き合い方を学んでいた。
Alpsdake
別府温泉の立役者・油屋熊八PR篇
「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」
別府で温泉宿をはじめた油屋熊八が考えた
キャッチフレーズだ。
それをどこで広めるか。
商店のポスターか、大都市の看板か。
彼の選んだ場所は、普通の生活ではめったに訪れない、
でも日本一有名な場所だった。
それは富士山。
大きな柱にしたため山頂に打ち立てたのだ。
仰天した登山客のうわさはやがて新聞記者の耳に入り
全国の新聞に取り上げられた。
大正14年という時代に
マスメディアに取り上げられることで
PRが成功した瞬間だった。
別府温泉の立役者・油屋熊八 子供 篇
「こどもたちをあいした ピカピカのおじさん」
別府駅前に立つ銅像にはこんなプレートがつけられている。
「ピカピカのおじさん」とは油屋熊八が
子供達につけられたあだ名である。
昭和初期というまだ子供の人権が低い時代に、
歌や踊り、童話を通じて子供達を喜ばせる事に力を尽くした。
クリスマスには、水上飛行機からサンタクロースを登場させて
驚かせたという。
当時、日本航空輸送会社の運賃は、
東京〜大阪間の飛行で30円。
工場労働者の平均月給が2円65銭。
熊八は子供達の笑顔を見る為には
借金をも厭わなかった。
別府温泉の立役者・油屋熊八 おもてなし篇
油屋熊八の経営する「亀の井旅館」は
どんな旅人でも徹底してもてなした。
腕のいい板前を大阪から呼び寄せ、
うまい料理と最高の布団を提供した。
全世界の国旗をそろえ、
外国人観光客が訪れれば、その国の旗を掲げた。
さらには
急病に備え旅館へ看護婦を常駐。
客が帰ればそれでおしまいという訳ではなく、
一度訪れた相手には年賀状を出し続けるという
徹底ぶりだった。
彼のおもてなしの精神は、聖書の一節から来ている。
「旅人をもてなす事を忘れてはいけない」
かつて相場で一文無しになった熊八は、
船底に隠れアメリカに渡る。
行き倒れた彼を救ってくれた宣教師の言葉を
熊八は一生大切にした。
別府温泉の立役者・油屋熊八 バスガイド篇
日本で最初の女性バスガイドは別府で生まれた。
当時のバスガイドと言えば高学歴の男性のみ。
案内の言葉を語るには高度な知識が必要だったからだ。
しかし、油屋熊八は、若い女性たちに「地獄巡り」のガイドをさせた。
七五調の案内文は童話作家がつくった。
「ここは名高き流川
情けの厚い湯の町を
真直ぐに通る大通り
旅館商店軒並び
夜は不夜城でございます」
アメリカ製のピカピカの観光バスに
美人バスガイドの名調子が響く。
関東大震災からの復興が進む
昭和2年のことだった。
「作家の時間割」トーマス・マン
午前8時前に起きる。
妻とコーヒーを飲み、
風呂に入って着替え、
8時半に妻と一緒に朝食をとる。
9時に書斎に入ったら、来客にも電話にも家族の呼びかけにも
一切応じない。
ベニスに死す、魔の山などを著したトーマス・マンの
仕事の時間割だ。
すべての文を完璧に
すべての形容詞を的確に
歯を食いしばって一歩ずつ、ゆっくりと進む
子どもたちは9時から正午までは
絶対に物音を立ててはいけないと躾けられた。
自分にも家族にも厳しい創作活動だった。
「作家の時間割」オノレ・ド・バルザック
午後6時に軽い夕食をとった後、ベッドに入って寝る。
午前1時に起きて書きもの机の前に座ると7時間ぶっ通しで書く。
午前8時から1時間半仮眠。
午前9時半から4時まで仕事。
19世紀フランスを代表する作家バルザックは、
自分を容赦なく追い込んだ。
大きく膨れ上がった文学的野心と次々に訪れる借金取りと
際限なく飲むコーヒーがそれを後押しした。
私は生きているのではない。
自分自身を、恐ろしいやり方で消耗させている。
だが、どうせ死ぬなら、
仕事で死のうと他のことで死のうと同じだ。
自身を削り、1日1日が、日なたにおいた氷のように溶けていくと感じながら、
90篇あまりにわたる「人間喜劇」を執筆したのだ。
「作家の時間割」ボーヴォワールとサルトル
人は女に生まれるのではない、女になるのだ
「第二の性」を著した女性作家シモーヌ・ド・ボーヴォワール。
20世紀フェミニズム運動の象徴的存在であり、
実存主義の哲学者サルトルのパートナー。
二人の間には「お互いに自由に恋愛し、それを一切隠し立てしない」
という取り決めがあった。
ボーヴォワールは朝起きて恋人とお茶を飲んでから
10時ごろに仕事を始める。1時ごろまで続けると、
サルトルのところへ行って昼食をとる。
恋人と一緒の時もあった。
それからサルトルのアパートで3、4時間、
黙って二人で仕事をする。
恋人がいるときは、夕食の後、自分のアパートに帰る。
サルトルは、自分のアパートで正午まで仕事をすると、
秘書が予定をいれた会合に1時間ほど出かける。
1時半にはボーヴォワールと一緒に食事してから仕事。
夜は政治集会に出かけたり、社交の場に行ったり、
ボーヴォワールと映画を見たり。
そしてバルビタール系睡眠薬を飲んで
2、3時間死んだように眠る。
それほど長時間働かなくても、豊かな結果を生むことはできる。
とサルトルは言う。
2人の奇妙で几帳面な関係は50年という長時間続いたのだった。
「作家の時間割」ジョルジュ・サンド
ほとんど毎晩、最低でも20枚の原稿を書く。
女性作家、ジョルジュ・サンド。
男装趣味や数々の男性遍歴、ショパンとの逃避行など、
自由奔放なイメージがあるが、仕事ぶりは真面目だった。
いつも夜遅くに執筆する。
それは10代の頃、病弱な祖母の世話をしていて
身についた習慣だった。
夢遊病のようになって書いていたこともあった。
書いたものを棚の上に置いておかなかったら
タイトルすら思い出さなかっただろう。
それでも彼女は書く。
夜はサンドが一人で考えることのできる
唯一の時間だったから。
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