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「あの日からサウダージ」 ナラ・レオン
「あの日からサウダージ」
ボサノヴァのミューズ、ナラ・レオンが
歌詞を書き下ろした、
日本のビールのCMのための音楽。
原題は、Suadades de você(サウダージュ デ ヴォセ)
あなたへの郷愁、あなたのいない切なさ、と言った意味。
失った愛と戻ってきた愛について歌っている。
作曲は、ホベルト・メネスカル。
ナラの最初の恋人だった。
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「あの日からサウダージ」 ナラ・レオン
「あの日からサウダージ」
ボサノヴァのミューズ、ナラ・レオンが
歌詞を書き下ろした、
日本のビールのCMのための音楽。
原題は、Suadades de você(サウダージュ デ ヴォセ)
あなたへの郷愁、あなたのいない切なさ、と言った意味。
失った愛と戻ってきた愛について歌っている。
作曲は、ホベルト・メネスカル。
ナラの最初の恋人だった。
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「殻」 ナラ・レオン
ボサノバのミューズ、ナラ・レオンは、
子どもの頃、いつもコンプレックスを持っていた。
姉のダヌーザは、ブラジルで一番有名なモデルだった。
姉が活躍し、輝きを増すにつれ、
ナラは自分の殻に閉じこもりがちになっていく。
12歳の頃は、泣いてばかりいた。
おとなしくて、シャイで、
自分自身をすごく醜いと思っていたわ。
最悪なのは、美人の妹だっていうこと。
あのとき、ナラ・レオンは
まだ存在していなかったわ。
ギターを弾くことを覚え、歌を歌いはじめ、
シャイな女の子は、いつしか女神になった。
「ボサノヴァが生まれた家」 ナラ・レオン
私の家庭は、イギリスでいうところのクラスレス。
社会的階級に属さない変わった家庭だった。
ナラ・レオン、ボサノヴァのミューズと呼ばれる彼女が
育ったのは自由な家庭だった。
行儀よくしろ、とか、伝統を守れ、とか
そういうこととは関係なかった。
コパカバーナにあったナラの家は、3LDKのマンション。
でも普通の3LDKよりはずっと大きく、
それぞれの部屋がすごく離れていた。
居間でパーティーをしたり、集まったりできた。
ほぼ毎晩、仲間が集まり演奏したり、歌い、
情報交換していた。音楽集会が開かれていたのだ。
のちにMPB(エミペーベー)、
ムジカ・ポプラール・ブラジレイラの歴史を築く人物たちも
集まるようになっていった。
アントニオ・カルロス・ジョビンや
ジョアン・ジルベルトも参加したことがある。
ナラの家でボサノヴァが生まれた、という人もいる。
私はグループにとってコンピュータみたいな存在だったわね。
全曲の歌詞とメロディーとコードを暗記していたから。
でも誰かが曲を思い出したい時にしか、
口を開けなかったし歌えなかった。
ナラがグループに残ったのは、そこが自分の家だったから。
そんな単純な出来事が、ボサノヴァの女神を生んだ。
cogdogblog
「ボサノヴァ」ナラ・レオン
ボサは「隆起、傾向、素質」といった意味。
ノヴァは「新しい」。
つまりボサノヴァは、ニューウェイブだった。
ブラジルでの全盛期は1950年代の終わりから
60年代の前半ころまで。
その後はもっとテンポが早く、
リズミカルな音楽が流行っていく。
美しいメロディ、ハーモニーと
心地よいリズムにのった
プライベート・ウィスパーソング
ナラ・レオンがボサノヴァを表現する言葉。
まるで彼女自身のようだ。
GlevumSunday
「小鳥のような声」ナラ・レオン
1959年、秋、海軍兵学校で開かれたコンサートで、
ナラ・レオンは、始めて舞台に立つ。
みなさん、ボサノヴァの一番若いメンバーを紹介します。
今日、始めて人前で歌います。ナラ!
そう紹介されるとナラは、パニックになった。
お客さんに背を向けて、半泣きで歌った。
けれどもその歌は大喝采を受けた。
かわいらしいヒザと前髪、
小鳥のような歌い方、ギターの腕前のよさ。
コパカバーナの少女、ナラ・レオンは、
徐々に人気を獲得していく。
各地でライブに呼ばれ、レコーディングに参加する。
1963年、プロとしての初仕事となる演劇作品
「哀れな金持ちの娘」に出演する。
マスコミもナラを賞賛した。
ナラ・レオンは、将来もっと上手になるだろうと
思わせるギターを弾き、とても音感がよく、
素晴らしい声を持っている女の子だ。
こうして、ボサノヴァのミューズへの第一歩を踏み出した。
ditadura3
「ボサノヴァとの訣別」 ナラ・レオン
デビューから、瞬く間に人気を博していった、ナラ・レオン。
いつからか「ボサノヴァのミューズ」と呼ばれるようになった。
このころブラジルの政情は、不安定だった。
ナラは、愛や海や花をモチーフにするボサノヴァの歌詞に
否定的になっていった。ミューズと呼ばれることも気に入らなかった。
自分の言いたいことを主張している音楽を求め始めた。
そして1964年4月1日、ブラジルで軍事クーデターが起こった。
その2週間後、ナラは「オピニオン」という歌をコンサートで歌う。
殴ったっていい
捕まえたっていい
何も食べ物が与えられなくてもいい
でも私は意見を変えない
ナラは、マスコミから自分を「反逆分子」と思うかと問われる。
軍事政権に賛成しないのか、と。
人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが
「反逆分子」なら、そう呼ばれることから逃れられないわ
「パリへ」 ナラ・レオン
ブラジルの軍事政権は検閲という圧力で、
アーティストたちの表現の自由を奪っていった。
軍警察はナラ・レオンを逮捕したがっているという情報がはいる。
ナラと夫の映画監督カカー・ヂエゲスは、
ブラジルから出国し、パリに移り住んだ。
ナラは、パリでとても幸せだった。
誰も私のことを知らなかったし、
普通の生活ができたの。
ナラは、ボサノヴァのミューズであることからも解放された。
pincusvt
「再び、美しきボサノヴァのミューズ」 ナラ・レオン
1970年、ナラ・レオンはパリで穏やかな生活を送っていた。
ブラジルの音楽にフランス語の歌詞をつけたり、
フランス語からポルトガル語の歌詞を作る仕事をしていた。
そして、音楽を通じて「ブラジル」を見いだしたいと思っていた。
軍事政権の灰色のブラジルではなく、
思春期時代の希望に満ちたブラジル。
上手く説明できないのだけれど、
でも、急に、唯一歌いたいと思ったのが
ボサノヴァだったの。
ギターを手に取って歌いはじめた。
そこにブラジルから、ナラ・レオンのアルバムを
録りたい、という手紙が届く。
ボサノヴァ集だった。
ナラは、再び音楽が好きになった。
そのアルバムのタイトルは
「美しきボサノヴァのミューズ/Dez anos depois」
女神は帰ってきた。
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