よくわかっていない 南光坊天海
徳川三代に仕えた僧侶、南光坊天海。
関ヶ原の戦いで参謀役を務め、
家康が江戸に幕府を開いたのは
天海の助言があったから、とも言われている。
しかしその経歴には謎が多い。
陸奥の国に生まれたという説、
足利将軍のご落胤という説、
そして有名な明智光秀説。
さらには光秀の従弟、明智秀満という説もある。
よくわかっていない。
この言葉が似合う男は、ロマンに溢れている。
よくわかっていない 南光坊天海
徳川三代に仕えた僧侶、南光坊天海。
関ヶ原の戦いで参謀役を務め、
家康が江戸に幕府を開いたのは
天海の助言があったから、とも言われている。
しかしその経歴には謎が多い。
陸奥の国に生まれたという説、
足利将軍のご落胤という説、
そして有名な明智光秀説。
さらには光秀の従弟、明智秀満という説もある。
よくわかっていない。
この言葉が似合う男は、ロマンに溢れている。
よくわかっていない 平田篤胤
江戸時代後期の国学者、平田篤胤。
すでにこの世にいなかった本居宣長と
夢の中で師弟関係を結んだ、と語っている。
当時は禁書とされていたキリスト教をはじめ、
さまざまな宗教を研究し、独自の神学を打ち立てたが
次第に、死後の世界や魂の救済に興味を持つようになる。
そのひとつが、天狗小僧と呼ばれた少年、寅吉との出会いだった。
異世界へ行ったという話を本にまとめるだけでなく、
寅吉を養子にして足掛け9年も世話をした。
須弥山の場所や、地獄と極楽の存在について。
また、超能力のような呪術も目にしたという。
こればかりは本当なのかどうか、誰も証明することはできない。
よくわかっていない 高島嘉右衛門
幕末のころの実業家、高島嘉右衛門。
本業の商売よりも、占い師、つまり易断家としての業績のほうが
有名だったようだ。
若くして父親の材木屋を継いだこの男、
横浜で外国人相手に伊万里焼を売っていたところ、
交換レートが違法だったことから牢に入れられてしまう。
そこで出会ったのが、易経だった。
5年後に出獄すると、嘉右衛門という名前に変え
横浜で本格的に材木商を始める。
外国公使館や外国人を受け入れる旅館の建設、
さらには鉄道事業への参加で巨万の富を得て
政府要人とのコネクションを手に入れる。
嘉右衛門の長女は伊藤博文の長男に嫁いだというから
その蜜月な関係が窺える。
そして彼が手がけたほとんどの事業は、
占いに従いながら成功を収めたと言われている。
当時の政治家たちも、有名な新聞も
彼の占いを頼りにしたという。
的中率が抜群だったという高島嘉右衛門の占い。
どうしてそこまで当たるのか。本当に当たったのか。
それはよくわかっていない。
よくわかっていない 河上彦斎
幕末の四大人斬りの一人とされる、河上彦斎。
身長は5尺前後というから150センチほど。
小柄で色白。
一見、女性を思わせる容姿だったという。
ただし殺気が尋常ではない。
あの勝海舟でさえ、彦斎と会ったときの様子を
怯えるような言い方で伝え残している。
佐久間象山を暗殺したこと以外、
彼の犯行はわかっていない。
ただ、語るのも恐ろしくなるほどの逸話の数々が、
彼の存在を、伝説に変えている。
よくわかっていない 木村荘平
幕末から明治に活躍した実業家、木村荘平。
牛鍋屋「いろは」で一世を風靡したことから、
またの名を、いろは大王という。
身長170センチ、体重90キロ。
当時としては大王のような巨漢の持ち主でもある。
14歳で家出し、相撲部屋に入門。
その後すぐに連れ戻され、
青物問屋、お茶の貿易商などを始めるも、どれも失敗。
たまたま開いた羊肉屋すらうまくいかなかったが、
羊から牛に変えてみたら、これが大当たりだった。
そして牛鍋屋「いろは」日本初のチェーン展開が始まった。
第一いろは、第二いろは、と店が増えるごとに番号をふっていったが、
店長を任せたのは、自分の愛人だった。
つまり女の数だけ支店が増えていく。
しかも愛人の両親が健在なら、番頭や女中として雇っている。
支店は最大で22店舗にもなったというが、
木村荘平亡きあと、養子が後を継ぐとわずか数年で没落してしまう。
その理由は、よくわかっていない。
よくわかっていない/末松謙澄
明治から大正時代のジャーナリスト、末松謙澄。
九州から16歳で上京すると、
高橋是清と知り合い英語を教わり、
大学中退を経て、東京日日新聞の記者となる。
彼の社説が伊藤博文の目に留まり、
官僚として西南戦争に従軍。
その後、外交官になりイギリス留学を果たし、
世界初の英語版「源氏物語」を出版。ついに文学者になる。
以後、衆議院議員、内務大臣なども歴任・・・。
こんな美しすぎる経歴の彼にも、ひとつ謎の業績があった。
源義経とジンギスカンは同一人物だ、という説を
イギリスで広く流布したのは、彼の執筆によるものである。
日本を広くPRすることが目的だったようだが、
なぜこのテーマを選んだのか、それはよくわかっていない。
よくわかっていない 岡倉天心
治から大正の美術運動家、岡倉天心。
生糸の貿易商だった父の影響から、
幼いころから英語に親しんでいた。
大学では英語力を買われ、
美術品を収集するときの通訳を務めるが、
卒業論文のテーマは、美術とは全く関係のない「国家論」。
ところが、学生結婚をしていた彼は、
夫婦喧嘩のはずみで、この卒業論文を燃やされてしまう。
困りはてた末に、急遽書き上げたのが「美術論」だった。
やがて彼は27歳の若さで
東京美術学校の校長に就任し、
人生の多くを美術に捧げることになるから不思議なものだ。
しかし、あのときの夫婦喧嘩のきっかけは、
未だによくわかっていない。
よくわかっていない 明石元二郎
日露戦争で伝説の諜報員と言われる、明石元二郎。
彼の役割は、こうだ。
今の金額で何十億、何百億円という工作資金で、
反ロシア勢力に武器と資金を供給。
ロシア革命を内部から支援すること。
その結果、
レーニンとの会談。
内務大臣の暗殺。
血の日曜日事件。
戦艦ポチョムキンの反乱など、
彼の功績は陸軍10個師団に相当する、とまで評された。
だが、実際には
レーニンと会った事実はなく、
大半の工作は失敗に終わった、という説もある。
真実なのか、都合よく利用されただけなのか、
本当のことは、よくわかっていない。
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