2016 年 1 月 のアーカイブ

森由里佳 16年1月17日放送

160117-04
d_effekt
夢と仕事 男の夢と仕事

My dream is 3D.

映画界で、そう公言してきた男がいる。

スタートレック、リトルマーメイド、美女と野獣、ライオンキングと
映画史にのこる名作を支えてきたプロデューサー、
ジェフリー・カッツェンバーグだ。

多くの功績をのこした彼は、
独立して映画スタジオを立ち上げるが、
自分の会社を「テクノロジー・カンパニーだ」と言い切った。
夢である、真の3Dを実現するためには、技術開発が重要だからだ。

「実写で撮影できないようなシーンは作成しない」をモットーに、
アカデミー賞受賞作品まで誕生させ、
スタジオはいまや3DCG映画の巨頭となった。

誰もが知るそのスタジオの名は、
Dream Works。
彼の夢は、着実に前へと進んでいる。

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森由里佳 16年1月17日放送

160117-05
Rafael Cassimiro
夢と仕事 ドリームワークスという会社

「むかしむかしあるところに―」

昔話の決まり文句からその映画は始まる。

「恐ろしい呪いをかけられたプリンセスは
 キスで呪いを解くことのできる運命の恋人を待ち続けていました」

とそこに突然、「おとぎ話じゃあるまいし、くっせぇの!」
というセリフとともに緑の怪物が画面にあらわれる。

映画の名は「シュレック」。
大ヒットとなったこの作品の製作会社は、ドリームワークスだ。

創設者のひとり、ジェフリー・カッツェンバーグは、
もともとディズニーのスタッフだ。
彼は、こう語っている。

私たちは、ディズニーとは違うユニークなことがしたい。
ディズニーが
子供たちと、大人たちの中にある子供の部分に向けて映画を作るなら、
ドリームワークスは
大人たちと、子供たちの中にある大人の部分に訴える映画を作るんだ。

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森由里佳 16年1月17日放送

160117-06
Burns Library, Boston College
夢と仕事 欠かせない夢

3D映画が出始めの頃、3Dと大々的にうたわれた作品を見たあとに、
期待はずれと感じた人は多いのではないだろうか。

立体映画と呼ばれていた1950年代の第一次ブーム、
ケーブルテレビの普及とともに始まった第二次ブームが過ぎ去り
3D技術は、その立ち位置を変化させてきている。

3Dの進歩が夢だというドリームワークスの創設者、
ジェフリー・カッツェンバーグはこう語っている。

単純に観客を驚かせるのではなく、映画の中に引きずり込みたい。
その場にいるような臨場感こそ、我々が目指すものだ。

彼にとって3Dとは、
モノが立体的に見えるように錯覚させる技術ではなく、
映画の世界に入り込んだかのように錯覚させる技術なのだ。

観客を引きずり込む映画をつくる。
そんな彼の仕事には、3D技術の進歩という夢の実現が欠かせない。

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飯國なつき 16年1月17日放送

160117-07
Chongming76
夢と仕事 アントニ・ガウディ

スペインの建築家、アントニ・ガウディ。

幼少期から「立体的なものを造る人」になりたいと思っていたガウディ。
不遇の学生時代、家具職人などを経て、
サグラダ・ファミリア聖堂の建築家に任命される。

以後、彼はこの建築の設計に、40年以上を費やした。
父、姪…と愛する人を次々に失い、
自殺を考えるまでの精神不安定な時期を経てもなお、
いっさいの仕事を断って取り組み続けた。

 私の親友たちは死んでしまった。
 私には家族も、客もいないし、財産もなにもない。
 だから私はサグラダファミリアに完全に没頭できるんだ。

ガウディが、狂おしいまでに人生を賭したその教会は、
建築途中にもかかわらず、
訪れた人々の心を奪い続けている。

完成を迎えるのは、
ガウディの没後100年にあたる2026年だ。

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飯國なつき 16年1月17日放送

160117-08
Birger Hoppe
夢と仕事 元ブータン首相フェロー・高橋孝郎

ブータンで、首相フェローを務めた日本人がいる。
その名は、高橋孝郎。

元々、コンサル会社や途上国の金融事業に携わっていたが、
民間事業に対して割り切れない思いが残り、退職。
貯金をはたいてアメリカの大学院へ行き、途上国開発について研究した。

その後、選んだ道は、ブータン政府の首相フェロー。
収入は政府からの2万円のみだったが、
途上国政府の中に入って、首相や大臣レベルの人達と仕事をし、
一国の発展に貢献できるチャンスは、逃すべきでないと思えた。

 短期的に経済的には最善の選択ではなくても、
 長い人生で見れば、
 このチャンスを取らない方がきっと後悔したんじゃないかなと思っています。

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渋谷三紀 16年1月16日放送

160116-01

内田百間 イヤダカラ、イヤダ。

偏屈すぎる随筆の神様、内田百間。

名誉ある日本芸術院の会員を辞退したときの

 イヤダカラ、イヤダ。

という台詞は、あまりに有名。
この言葉、実はずいぶん端折られている。
正しくはこうだ。

推薦のお礼を丁重に述べた上で、
「サレドモ」とつづける。

 ゴ辞退申シタイ。ナゼカ。イヤナノデス。

これだけでも十分ひねくれ者だが、
百間は止めない。

 ナゼイヤカ。気ガ進マナイカラ。
 ナゼ気ガ進マナイカ。イヤダカラ。

もう、まったく理由になっていない。

こうなれば、
冒頭の感謝の言葉は響きを変え、
慇懃無礼にしか聞こえないのだから、
さすが百間、というほかない。

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渋谷三紀 16年1月16日放送

160116-02
sabamiso
内田百間 ノラや

幸せだった。
ある日、庭に現れた野良猫ノラと
暮らしはじめた、随筆の神様、内田百間。

ノラへの愛情をてれくさく感じ、
お得意の屁理屈を並べるものの、
いまいち切れが悪い。

突然、ノラが失踪。
百間は新聞に迷い猫の広告を出し、
近所にビラも配った。

 ノラやノラや、お前はもう帰って来ないのか。

風呂にも入らず顔も洗わず、泣き暮らした。
その涙が乾いた頃、百間の傍らには新しい猫がいた。

名はクルツ。
ドイツ語で「短い」という意味。

しっぽが短いという理由だが、
自分の心変わりと、ひとのこころの短さを、
皮肉っているのかもと勘ぐりたくなる。

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渋谷三紀 16年1月16日放送

160116-03

内田百間 七体百鬼園

随筆の神様、内田百間は、大の甘党。
なかでもシュークリームには、目がなかった。

「七体百鬼園」には、
やれ皮が好きだ、やれクリームが好きだと、
シュークリームの魅力を語り合う場面がある。

百間のシュークリーム原体験は、
18歳にさかのぼる。
ある夜、「シュークリームが食べたい」と
わがままを言い出した百間。
百間を溺愛していた祖母は、
いやな顔ひとつせず、買いに走ってくれたという。
祖母の手から受け取り、
すすったクリームの美味しかったこと。

シュークリームに秘められた、
シュークリームよりも甘やかな記憶。

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渋谷三紀 16年1月16日放送

160116-04

内田百間 阿呆列車

 何カノキッカケガアレバ
 汽車ノコトヲ一生懸命ニ記述シテイル。

随筆の神様、内田百間は、
まちがいなく元祖鉄道オタク。
鉄道に乗るためだけの旅に出ては、
「阿呆列車」をつづった。

鉄道に乗る以外の目的はあってはならない。
行きと違い、帰りは「帰る」という目的があるから、
「阿呆列車」ではないと言い張るのだから、
こだわりをこえた頑固なオタク、ここにありだ。

ついには、東京駅の一日駅長をつとめた百間。
大好きな列車「はと」の展望車に乗れたことが、
よほどうれしかったのだろう。
普段は決して見せない、満面の笑みをうかべた
百間の写真が残されている。

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澁江俊一 16年1月10日放送

160110-01

織田幹雄の記録

今日は慶應義塾を創立した
福沢諭吉の誕生日であり、
早稲田大学を創立した大隈重信の命日。

今も数々のスポーツで、
ライバル関係にある早稲田と慶應だが、
日本初のオリンピック金メダリスト
という栄光は、早稲田のものとなる。

1928年、アムステルダムオリンピック。
早稲田競争部の織田幹雄が三段跳びで見事優勝。
日本人の勝利など誰も予想しておらず
表彰式に掲げる日の丸がなかったという。

織田の記録15m21cmは、
国立競技場のメインポールの高さになり、
新国立競技場にも、移設が決まっている。

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