「菊池寛への言葉」生涯
今日3月6日は、菊池寛の命日。
「父帰る」「真珠夫人」を著した人気作家であり、
文藝春秋を作り、芥川賞、直木賞を創設した菊池寛。
大映の初代社長でもある。
菊池寛は、世の中の人に
さまざまな小説や娯楽を紹介していった。
文学の価値を知り、
価値を作り出す書き手たちを
支え続けた。
こういう人を私はいまだに知らない。
井上ひさしは菊池寛を、
大正から昭和にかけての、
日本社会の偉大なプロデューサーだと言った。
「菊池寛への言葉」生涯
今日3月6日は、菊池寛の命日。
「父帰る」「真珠夫人」を著した人気作家であり、
文藝春秋を作り、芥川賞、直木賞を創設した菊池寛。
大映の初代社長でもある。
菊池寛は、世の中の人に
さまざまな小説や娯楽を紹介していった。
文学の価値を知り、
価値を作り出す書き手たちを
支え続けた。
こういう人を私はいまだに知らない。
井上ひさしは菊池寛を、
大正から昭和にかけての、
日本社会の偉大なプロデューサーだと言った。
「菊池寛への言葉」六代目尾上菊五郎
昭和23年3月6日、文豪・菊池寛は急逝した。
病んでいた胃腸が良くなったという知らせの直後だった。
その急逝に各界が衝撃を受けた。
歌舞伎役者の、六代目尾上菊五郎もその一人。
弔辞の時、菊五郎はしばらく遺影を眺め、
悲しみを吹っ切るように頷き、マイクに向かった。
親友菊池君の死を心から悼む
君の作品は実に演り良かった
最近君に頼んで置いた
僕の演りたいと思っていた作品を
黙って遺して
のそつと逝ってしまった
実に残念だ
寂しい感じだ
菊五郎は野球好きでチームも持っていた。
菊池寛率いる文藝春秋のチームと対戦したこともある。
思い出は尽きないと弔辞は続いた。
「菊池寛への言葉」石川達三
昭和23年3月6日に、菊池寛は亡くなった。
菊池は人気作家だっただけでなく、
芥川龍之介賞、直木三十五賞を創設した。
それは亡き友人の名を後世に残すため。
そして、広く人材を文壇に送り出そうという
思いがあった。
第1回芥川賞の受賞者は「青春の蹉跌」で知られる石川達三。
葬儀の日、石川の顔はこわばり、怒っているかのように見えた。
菊池先生、お別れする時が参りました。
誠に突然の事で、お別れを申し上げる自分の言葉が
信じられない気持が致します
続けて石川は、菊池の文芸文化に対する愛情と育成、
その功績を讃え、日本文壇の恩人だったと呼びかけた。
自分も育てられた一人であり、
菊池の死は自分たち作家にとって深刻なものがあると語った
先生は私に与えてくださるお言葉を、
もう一つ持って居られたやうに思はれます。
それが何であったか、私は空しく手さぐり
しなくてはならなくなりました。
菊池寛は、この世から姿を消して、なおも
遺された者たちの才能を、育て続ける存在だった。
「菊池寛への言葉」岩田専太郎(せんたろう)
文豪、菊池寛が亡くなったのは、
昭和23年3月6日。終戦からわずか3年だった。
その間、菊池が創立した「文藝春秋」は
休刊、解散の危機にあった。
葬儀の日、挿絵画家代表として岩田専太郎が弔辞を読んだ。
岩田は終戦直後、菊池にかけてもらった
「3年の辛抱だ」という言葉を忘れていなかった。
3年たちました。
私達のこれからの困難な途について、
御指示と御力添えを御願ひする時が来たのに
今私ハ先生の柩の前に立たなければなりません
何も申し上げられません
皆悲しんでいます
菊池は作家のみならず画家への支援も惜しまなかった。
岩田はじっとこの深い悲しみに堪えていくと語った。
「菊池寛への言葉」川端康成
昭和23年の今日、作家・菊池寛はこの世を去った。
その葬儀の席、川端康成は司会に再三、名を呼ばれても
気がつかなかった。
菊池を介して出会った芥川龍之介、
横光利一ももう、この世にいない。
今日、私はつつしんで控えておるべき身でありながら
ここに立つて弔辞を読ませていただきますのは
私と同じやうに菊池さんの大恩を受けました多くの友人
例えば横光らが大方私に先立ちましたゆえと思ひますと
それらの多くの亡き友人からも
私はここに一言お礼を言ふ役を遺されたのでありませうか
川端は、菊池をその恩を受けてもお礼を言わなくてもいい人、
次から次へと恩を重ねてもいい人だったという。
だから自分がお礼を言う役なのだと。
そして、菊池に出会えた自分たちは千載の幸せ者であり
その幸せは菊池の死によって消えるはずもないと続けた。
弔辞を終え、席に戻っていくその後ろ姿は、
また一段と小さくなったように見えた。
「菊池寛への言葉」吉川英治
文壇の大御所と呼ばれ、後進の育成に心を砕いた菊池寛。
今日はその命日。
葬儀の日、友人代表として弔辞を読んだのは、吉川英治だった。
「宮本武蔵」「三国志」「私本太平記」などの
傑作を書いた国民的作家だ。
菊池はかつて息子に
「自分の文芸的素志を継いでくれるものがないのはやはり淋しい」と
言ったことがあった。吉川はそれを否定する。
菊池寛氏 あなたの文芸的種子は自らの御想像以上
昭和年代の地上に蒔かれています。
日本の地は今まだ春浅い冷たさにあり
真の自由と和楽の日は遠いとしても
かならず人々の胸にある菊池文学の香りは
時にあって開花し この国の人々を幸福にし
また人から愛されてゆくにちがひありません
弔辞を終え、吉川は声を出さずに
唇だけで「菊池 サヨナラ」と言ったようであった。
「菊池寛への言葉」林芙美子
3月6日、今日は文豪・菊池寛の命日。
葬儀の、最後の弔辞は林芙美子だった。
「放浪記」で知られた作家。このとき43歳。
黒いスーツに白の真珠のネックレス。
菊池寛氏の霊にさゝげて
自然がからかっていないことだけはたしかだ。
かすかな霧の中に轟き落ちていく一つの宿命、
音もやんだ。誰もいない。
眼にはみえない凄じい永ごうの安息、あゝ妙な事だ。
思ひ出の中の無数の火把(たいまつ)のほてり
歳月の靄の中にかすかにそよぐ不朽の虹、
あゝまたその虹の向ふから、
馴々しくあきらめがやって来る。
全く妙な事だ。淼淼(びょうびょう)たる人生歌、
やがて壁の中にも、小さな集会の中にも
時々の負の中にもその火把(たいまつ)が
あたゝかくかげりゆらめく
美しい声であった。優しい声であった。
弔辞が終わっても皆しばらくその姿勢のままであった。
「菊池寛からの言葉」遺書
昭和23年3月6日、文壇の大御所、菊池寛が急逝した。
葬儀には、家族、親族、2百人あまりの来客、
一般の参列者を加えると7千人あまりが訪れた。
何日か経って菊池寛の仕事場の金庫から遺書が出てきた。
私は、させる才分もなくして、文名を成し、
一生を大過なく暮らしました。
多幸だったと思ひます。
知人及び多年の読者各位にあつくお禮を申します。
ただ國家の隆昌を祈るのみ。
吉月吉日
菊池寛
「雑誌に発表し告別式のとき掲示されたし」という
一文が添えられていた。
葬儀はすんだばかり。
長男英樹は黒縁の紙に印刷し、
会葬者御礼ともに送った。
死後を思い、後に残されるものを思う。
菊池寛の人への思いの深さを感じる。
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