2016 年 6 月 5 日 のアーカイブ

大友美有紀 16年6月5日放送

160605-01

「棟方志功」眼鏡

版木に顔をこすりつけんばかりにして、
鬼気迫る姿で彫る。板画家・棟方志功。
世界のムナカタと呼ばれる、かの芸術家は、
幼い頃から目が悪かった。
小学校の2年生の時、青森で大火があった。
すぐ上の兄は小さい弟妹の手を引き、
志功をおぶって逃げたという。
それぐらいおぼつかなかった。
初めて眼鏡を得た志功は、光をも得た。
パアッと明るくなって新しい世界が開けたと感じた。

 見えない眼は「見たいものだけを見る」眼である。
 絵とは本来「絵空事」。
 「花の絵」ではなく「絵の花」描くのだ。

 
棟方は心の中にある美を表現したのだ。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-02

「棟方志功」絵燈籠 

板画家・棟方志功の生家は青森市の
善知鳥(うとう)神社の鳥居前にあった。
毎日この境内で遊んだ。
ねぶたに浮かれる青森の短い夏が過ぎると、
善知鳥(うとう)神社のお祭りがある。
宵宮を控え鳥居の前には大幟(のぼり)が立てられる。
14、5歳の頃、兄と家業の鍛冶屋を切り盛りしていた志功は、
幟の金輪の一切を任された。一生の誇りとして覚えている。
社務所に掲げられた二間もある絵燈籠にも眼を奪われた。
1本の木に紅や紫、黄色に彩りされた大牡丹の花が咲く絵だった。
志功は、こんなウソを描いて大人たちは喜んでいるのかと、
不思議でならなかった。しかしそれこそ本当の絵だと後に悟る。

 自然とは別な、絵としての自然が
 ここに表現されたんだ。
 牡丹そのものの花ではない。
 これは絵から生まれた牡丹だと思った。

「嘘で表せねば表せない真実」
陶芸家・河井寛次郎が口にした言葉を、棟方は書き留めていた。
彼は「絵の花」を生涯描き続けた。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-03

「棟方志功」大鉢

昭和11年、棟方志功は春の国画会に
板画作品「大和し美し」(やまとしうるわし)を出品する。
これが思想家・柳宗悦の目に留まり
半年後に開館する日本民藝館の買い入れ作品となった。
棟方志功が「世界のムナカタ」へと飛躍する第一歩だった。
作品納入の時、棟方は初めて柳邸を訪れた。
創作版画の先達から、家中にあるものはみな宝物だから、
そそっかしい君は気をつけなくてはいけないと諭されていた。
体中から湯気が出る思いで部屋に通されると、
正面にどっかりと据えられた大鉢に眼が吸い寄せられた。
見惚れて柳の存在すら忘れた。どんな名人の作だろうと
興奮でがんがんと心臓が鳴り、ぐったりと疲れるほど締め付けられた。

我に還り「イギリス製でしょうか」と尋ねる棟方に、
柳は「これは九州の職人が作ったうどんをこねる鉢で、
誰かを感心させようとして作られたものではない」と説明した。
 
 希有のものより、普遍のもの。
 ほんとうのモノは、名前が偉くならなくても仕事が美しくなる。

それまで有名になることだけを目標に
創作に取り組んできた棟方にとって、
柳の言葉は、天地が逆転するほどの衝撃であった。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-04
芥川千景
「棟方志功」ねぷた

板画家・棟方志功は青森に生まれた。
青森といえば、ねぶた祭りだ。
8月上旬のねぶたが終わると一気に秋になる。
米の収穫が始まる。続いてリンゴの収穫が始まる。
それが終わると長い冬が来る。
棟方は「ねぶた」を「ネプタ」と発音した。

 禰舞多(ネプタ)は四季の宗教だ。
 春めき、夏めき、秋めき、冬になってこそ
 禰舞多(ネプタ)の総ざらいはあるのだ。

ある時、棟方家にオープンリールのテープレコーダーが導入された。
「これで録音できるのか」と志功はマイクを手にし、
何やら低く歌いだした。ねぶた囃子だった。
太鼓の響き、笛の音、ブリキのカネの音、
歌うというより節を付けて語っているようだった。
それはテープが尽きるまで30分続いた。
当時中学生だった孫娘一人だけがその様子を見ていた。
今、いくら探してもそのテープは見つからないという。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-05

「棟方志功」ゴッホ

青年の棟方志功は「白樺」に掲載された「ひまわり」を見たとき
「ワはゴッホになるっ」と思わず叫んだ。
物狂おしいほど油絵に恋をし、
油絵描きになる夢に取り憑かれた瞬間だった。
しかし、落選に次ぐ落選。上手くいかない。
そんな時、ゴッホが描いた「日本趣味おいらん」に出会う。
フランスの雑誌に掲載された浮き世絵を元に描かれたものだった。
棟方もゴッホも雑誌の口絵に夢中になり、模写していた。
そして日本が世界に誇れるものは、版画なのではないかと思い至った。

 わたくしは、ワは、ゴッホになるッ、と
 ワケも判らなく叫ばねばならなかった時と
 わたくしのワも違って来たようです。
 あれから読んだり会ったり念ったり(おもったり)
 願ったりした事、送ったり別れたりしている仕舞ったこと、
 これから仕舞わねばならない事なぞ沢山ある中に、
 ワは、ゴッホになるッ、をわたくしなりに観じたいと思っています。

 
最晩年、昭和47年の夏、アトリエの庭に
ゴッホの描いたのと同じ八重咲きの向日葵が咲きそろった。
棟方は、憑き物が憑いたようにひまわりを描き、
多くの自画像板画を制作した。原点に還るのようだった。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-06
Momotarou2012
「棟方志功」凧

眼が悪かった棟方志功は
小学校の図画の成績はずっと丙か丁だった。
絵を描く事は好きだった。
同級生たちが「シコ、絵コ描いてケロ」と
紙を持って来ると凧絵を描いた。
描くのは、歌舞伎役者。絵の具などないから、墨一色。
それが空にあがった時、どんな凧よりも目立ったという。

青森の凧絵には3つの流れがあった。
役者絵が中心のあでやかな青森の凧、
鷹揚な描法で能面のような顔が描かれる五所川原の凧、
北斎ばりの画風で三国志の豪傑を扱う弘前の凧。

 青森の優艶、五所川原のスケールの大きさ、
 弘前の剛直勇壮、それぞれがからだの中に入っていて、
 自分の絵や板画の魂を入れているのだ。

 
孫たちには「ワの凧だきゃ、イッツバンであった」と自慢した。
ネプタも凧絵も棟方の世界の源を作っている。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-07
Kirsty S
「棟方志功」背広

上口愚朗(かみぐちぐろう)という人がいる。
本名上口作次郎。宮内庁御用達の洋服店で修行し、
26歳で独立し自分の店を持った。
棟方志功は、上口と「ナカヨシ」だった。
共に小学校しか出ていない、学ぶ事に貪欲、
吸収力も半端なものではなかった。

 上口の作った服を着て他の人と共に写真を撮ると、
 判然と群を抜いて立派なことがわかる、
 全く驚きだ。何か知らない底からの位(くらい)がある。

仕事柄、棟方は上半身に筋肉がついている。
上口が棟方のために仕立てた背広は、
左右の襟も裾もポケットの形も違い、
ボタンホールがひとつしかない。
一度着用すると、別になんの破綻もなく、
着姿をこわさない、妙に不思議なこの背広。
棟方のいちばんのお気に入りだった。

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大友美有紀 16年6月5日放送

160605-08

「棟方志功」ベートーヴェン

棟方志功は音楽が好きだった。
幼い頃は、家が貧しかったために
楽器だけはどうする事もできなかった。
家族を持ってから、娘二人にはピアノを、
長男にはバイオリンを習わせた。
家の中に音楽があることが幸せだった。

 音楽というものと美術との関係は、
 わたくしはきりはなせない、
 お互いむすび合う世界だと思っています。

 
とりわけベートーヴェンが好きだった。
蓄音機を持っていない頃からレコードを揃えていた。
ステレオセットを持つ生活になっても
自分でレコードをかける事はできなかった。
針を落としてくれる人をじっと待っている。
棟方にとって音楽は誰かと一緒に聴くものだったのだ。

自分が墓に入ったら白い花一輪と第九を聴かせてほしい、
そう言葉を遺していた。

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