2016 年 10 月 のアーカイブ

福宿桃香 16年10月8日放送

161008-04
niallkennedy
読書の話 ビル・ゲイツ

マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツ。
21世紀トップの大富豪である彼の自宅には、
1万4000冊を超える書物が並ぶ個人図書館がある。

ゲイツの読書好きは、
両親によって導かれたものであった。
幼い彼には偉人の伝記からSF小説まで
ありとあらゆるジャンルの本が与えられ、
それらの内容について、来る日も来る日も両親と議論。
読書に集中できるよう、平日のテレビ鑑賞は一切禁止だったそうだ。

本に囲まれた幼少期がなければ、
今の成功は絶対になかったと断言するゲイツ。
だが、コンピューター業界のど真ん中にいる彼から見て、
インターネット時代の今、
子供に読書を習慣づけることは時代遅れではないのだろうか?
ゲイツはこう答えた。

 僕の子供はもちろんコンピューターを持つだろう。
 しかし、それより前に、本を手にする。

 
どれだけネットが進んでも、
それが本を読む大切さを引き下げることは今後もない。
あのビル・ゲイツが言うのだから、きっと間違いないはずだ。

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永久眞規 16年10月8日放送

161008-05
Daniel Wehner
読書の話 佐野洋子

小学生の時から、
夏目漱石もモーパッサンも読んでいた。
児童書から大衆小説まで、
それはまるで活字を食らうように。

「100万回生きた猫」で名を馳せた
絵本作家の佐野洋子。
読書家の彼女は若いころを振り返り、こう言う。

 次、生まれるならバカな美人に生まれたい。
 本を読む中途半端なインテリは、
 生意気で感じが悪くて口ばっか。
 気づいたら、そんなやつに自分がなっていたの。

彼女が気づいたのは、
背伸びして大人ぶっていた自分の
人としての「未熟さ」だった。

けれど若いころに読んできた本が
作家としての彼女をつくったのも事実だ。
100万回生まれ変わったとしても、
きっと彼女は本を愛してしまうだろう。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-09
cheerli9
「作家と本」長嶋有・増刷

芥川賞作家・長嶋有は、ある講演会の際、
自著にサインと「好きな言葉」を書いてくださいと頼まれた。
長嶋は、ほんとうにいいんですね、念を押し、
「増刷」と書いた。書いてみると思った以上に間抜けだったので、
小さく「したい」と書き添えたら、もっと間抜けになってしまった。

 僕に限らず、あまねく作家が本当に一番好きであろう言葉。
 それは「増刷」だ。
 本というのは一冊だけ読んでおしまいという人間はほとんどいない。
 一冊の本を読んだ時、その人は別の本を手に取る可能性を
 もう持っている。いつか僕の本に巡り会うかもしれない。

「本」という言葉をそのまま「世界」に置き換える。
豊穣なのも、貧しいものも含め、本とはすべて一つの世界である。
増刷は、それがたとえ千部、百部単位の小さなものであろうとも、
世界の広がるさまを感じさせるものなのだ。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-02
AisforAmy91
「作家と本」浅田次郎・一日一冊

直木賞作家・浅田次郎は一日一冊の書物を読む。
それも途中で栞を挟まずに一気呵成に読みたい。
だいたい四時間の連続した読書時間を持てば、読み切ることができる。
だから一日一冊四時間をという習慣を続けている。
浅田が読書に偏執するようになったのは、
幼い頃の社会背景や家庭環境が関係している。
今でこそ、読書は勉強であり「よいこと」とされているが
昭和三十年代の日本、浅田のまわりでは、
読書が少年の健全な行為とは考えられていなかった。

 本なんぞ読んでいたら肺病になっちまうぞ。表で遊んでこい。
 としかられる。育ち盛りの子どもが読書をするというのは、
 さしずめ今でいう「引きこもり」に近かったのであろう。

浅田の読書熱は、こうした環境によって養われ育っていった。
他者から強要される学問ではなく、
純然たる娯楽として読書に蠱惑(こわく)された。
読書に多少の背徳を感じつつ、やむにやまれぬ思いで続けてきた。
一日一冊も、自ら課したわけではなく、
そのくらいにしておかなければ人生を棒に振ってしまいそうな気がしたのだ。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-03
Roberto F.
「作家と本」鈴木清順・大菩薩峠

映画監督・鈴木清順は「本はみるものである」という。
遠い昔のこと、古い温泉場の廊下の棚に二十数巻の「大菩薩峠」があった。
キャンプのために山を訪れたが、雨に降り込められていた。
窓の外に赤い柿の実が一個なっていた。
雨は二日降り続き、鈴木は二日ぶっとおしで「大菩薩峠」をみた。
三日目、雨が上がり友だちが出かけようと言った。
鈴木は、すべての「大菩薩峠」をみることはできない。
そこに置いて宿をでた。

 東京に帰って、さて続きをみようと本屋に行ったが
 買う気になれなかった。
 立ち見をしても「大菩薩峠」の気分は出なかった。
 本は本が置かれた場所で私たちに話しかけてくる。
 幸い私の「大菩薩峠」は私が予期しなかったとき、
 そしてそれが本来あるべきところで私の目にふれた。
 友だちとの小さな諍いのあとであったがために、
 赤い柿の実と、長い雨と、古い温泉場という結構のために、
 「大菩薩峠」は本であった。

 
以降、四十年経っても、鈴木は「大菩薩峠」をみることはなかったという。
本は本が見せかけに持っている思わせぶりな勿体ぶった外装を捨てて、
自然に捨て置かれてあるところに価値があるのだと。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-01
sun_line
「作家と本」いとうせいこう・可能性の天国

作家であり、クリエイターであるいとうせいこうは、
本を生き物に近い感覚で扱う。
だから他人の本棚で逆さになっている本が許せない。
生き物を逆さ吊りしているのと同じ残酷きわまりない行為だと感じる。

 誰にも買われていない本が大量に並ぶ書店は
 楽園のような場所である。
 特に逆さに置かれた本がない書店なら、
 中に立っているだけで心躍る。
 どんなに古い本でも、人の手によって
 繰られていなければそれは新しい。
 その新しい生き物を最初に買う可能性が
 自分にあるのだと思うと、
 その可能性の喜びに体が震えてきそうになる。

 
書店は、いとうにとって可能性の天国だ。
だから何も買いたくなくなることさえある。
買ってしまえば、可能性が現実に狭まり、
書店に立っていた時の圧倒的な喜びが消えてしまうからだ。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-05
ORAZ Studio
「作家と本」出久根達郎

直木賞作家にして古書店店主、出久根達郎は、
いつごろからか本の書き込みや傍線が派手になったと
感じていた。自分の本だからどう読もうと勝手だが、
古本屋としては、色とりどりのマーカーの線が引かれた本を
堂々と売りに来られると弱ってしまう。
本の後ろに住所氏名、電話番号を書き込んだものなどは、
墨で消すこともある。

 昭和二十年一月二十七日 敵五編隊帝都空襲ノ日
 アサコサンヨリコレヲイタダク
 ワガ最良ノ日ナリ 感激言語ニツクセヌ
 大事ニ読ミススメル 何度モ抱キシメル
 生涯離サヌ

アンドレア・マヨツキ「外科医の手記」に書き込まれた言葉。
生涯離サヌはずの本が、出久根の古本屋に流れてきた。
いたずら書きとは思えない。
いうにいわれぬ運命があったのだろう。
本は、その存在自体が物語になることもある。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-06
kyu3
「作家と本」万城目学・フロイト

作家・万城目学は、大学時代、友人と琵琶湖に釣りに行った。
友人は「夢判断 フロイト」の文庫本を持ってきていた。
面白いの? と聞くと面白くないという。
釣り竿の上にフロイトを置き、友人はうたた寝をしていた。
当たりが来たとき、文庫本を琵琶湖に落としてしまった。
数日後、その友人はまた「夢判断 フロイト」を持っていた。
面白いの? と聞くと面白くないと返ってきた。
でも最後まで読みたいから。

 面白くなくても読む。何はともあれ読む。
 それが極めてぜいたくな時間の使い方だと知ったのは、
 私が三十歳になってからのことだ。
 釣りをしながら、ぼんやり本を読むなど、
 人生最高の贅沢のひとつだ。

 
だが、そのときはそれがわからない。
何も考えず、じゃぶじゃぶ湯水のように貴重な時間を浪費する。
それが若さの美しいところであり、憎たらしいところでもある。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-07
Nixie+
「作家と本」高山文彦・プルースト

ノンフィクション作家・高山文彦は学生時代、
飲みしろ欲しさに、よく古本屋に本を売りにいった。
あるじは痩身のクリスチャンで単行本を十冊ばかり持っていくと
いつも決まって五千円という高値で引き取ってくれた。
マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」全巻を
売りにいった時は、八千円で引き取ってくれた。

 こうしてまで飲みたい酒とはなにかね。
 あたしゃ酒はやらないからわからないけどさ。
 まあプルーストの分まで懶惰(らんだ)な夢に溺れることだね。
 とりもどしたくなったらおいで。
 八千円で譲ってやるから

高山はジーンズの尻ポケットに金を突っ込んで、
泣きそうな顔で夜の街に出て行った。
その後も取り戻すどころか、やけになって本を売り続けた。
プルーストはずっとあるじの背中の棚にあった。

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大友美有紀 16年10月2日放送

161002-08

「作家と本」荒川洋治・つか見本

本の外箱を作る時は、なかみの厚さを測らなくてはならない。
少しでも寸法が違うとなかみが箱から、すとんと落ちたり、抜けにくくなる。
それを避けるために作るのが「つか(束)見本」。
つか、とは本の厚みのこと。
本文、見返し、扉、表紙を実際に使う紙と同じものでつくる。
印刷はしていない。「白い本」のヒントになったのがこの「つか見本」。
現代詩作家の荒川洋治は、出版社から、ある作家の全集の第二巻の
「つか見本」と箱をもらった。箱は実際のもので文字が印刷されている。
 
 今年はこの人のものをぜんぶ読もうと思っている作家の本の
 「つか見本」だ。よろこびはひとしおである。
 箱はほんものなので、箱におさめると、これが「白い本」であることは
 おもてからはわからない。何につかおうか。
 ひとまず、ほんものの第二巻の隣に並べることにした。

 
荒川は「つか見本」の重みは、格別である、という。
作品の重みとは違う。著者の重みとも、また違う。どう表現していいか。
なかみが白なので、わからない。

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