pelican
食欲の秋 ピェンロー鍋
妹尾河童の「ピェンロー鍋」をご存じだろうか。
干しシイタケを一晩水につけたダシに、
白菜・豚バラ肉・鶏モモ肉・春雨、そしてたっぷりの胡麻油を投入。
ぐつぐつと煮立て、塩と一味唐辛子だけで味わう。
くたくたになった白菜がなんとも美味しく、
ついつい紹興酒が進む。
シンプルな鍋だけに、ひとつでも工程を飛ばすと
この至福にはたどり着けない。
妹尾が言う通り、
「うんと寒くなって白菜がウマク」なってから、ぜひお試しあれ。
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食欲の秋 ピェンロー鍋
妹尾河童の「ピェンロー鍋」をご存じだろうか。
干しシイタケを一晩水につけたダシに、
白菜・豚バラ肉・鶏モモ肉・春雨、そしてたっぷりの胡麻油を投入。
ぐつぐつと煮立て、塩と一味唐辛子だけで味わう。
くたくたになった白菜がなんとも美味しく、
ついつい紹興酒が進む。
シンプルな鍋だけに、ひとつでも工程を飛ばすと
この至福にはたどり着けない。
妹尾が言う通り、
「うんと寒くなって白菜がウマク」なってから、ぜひお試しあれ。
Johnson Wang
食欲の秋 金子半之助
天ぷら職人・金子半之助が「閻魔帳」と呼ばれたレシピ帳に遺した、
「秘伝の江戸前の丼たれ」。
このたれに合う天ぷらダネを見つけ出したのが、その孫、金子真也である。
天丼屋を開いた真也は、
敬意を表し、その店に祖父の名前をつけた。
季節の野菜、あなご、海老、半熟玉子。
さくさくの衣と、それに絡む至極のたれ。
それを味わいたくて、今日も「金子半之助」に人々は列をなす。
食欲の秋 シーザー・カルディーニ
1924年のある日、
メキシコ、ティファナのレストラン「シーザーズ・パレス」。
その夜、客が大挙して押し寄せたため、
店の食材は底をつきかけていた。
そこでオーナーのシーザー・カルディーニは
ありあわせの食材でサラダをつくった。
ロメインレタスの上に、
塩、コショウ、ガーリックオイル、レモン汁、ウスターソースを
合わせたシーザードレッシングをかけ、
パルメザンチーズとクルトンをトッピングした。
このサラダが「シーザーサラダ」として評判となり、
のちに世界中に広まった。
食欲の秋 ロバート・コブ
1937年のある日、
ハリウッドのレストラン「ブラウン・ダービー」。
その日、オーナーのロバート・コブは
夜まで何も口にしていなかった。
空腹に耐えかねたコブは
冷蔵庫にあったありあわせの食材でサラダをつくった。
レタス、アボカド、トマト、鶏肉、ゆで卵、
カリカリに焼いたベーコンを細かく切って、
その上にフレンチドレッシングをかけた。
そのサラダを、客として来ていた
チャイニーズ・シアターのオーナーに試食させると、
その味は絶賛された。
このサラダが「コブサラダ」として評判となり、
西海岸から全米へと知れ渡るようになった。
岩倉具視と洋服
明治4年。岩倉使節団が
まず到着したアメリカで注目の的になったのは、
髷と和服姿の岩倉具視だった。
熱烈な歓迎に上機嫌だった岩倉は、
真実を聞かされ愕然とする。
アメリカ人たちは、
未開の国の奇妙な風俗を見物するために
集まっていたのだ。
ついに岩倉は断髪。装いも洋服に改めた。
そのニュースが伝わると
日本でも洋服を着る習慣が広まることになった。
陸奥亮子と洋服
陸奥宗光の妻、陸奥亮子は
もとは新橋の芸妓だった。
宗光に見初められ社交界に入った亮子は、
「鹿鳴館の華」と呼ばれる。
さらに夫が駐米公使になると、ともに渡米。
その美貌と聡明さで「ワシントン社交界の華」となった。
着慣れていた着物を脱いで洋服を着こなし、
世界の賞賛を集めた大和撫子。
彼女こそ、文明開化そのものだった。
広岡浅子と洋服
女性実業家の先駆けであり、
女子教育の発展にも尽力した広岡浅子。
新しいことをどんどん取り入れる合理的な彼女らしく
洋服をとても好んだといい、
現存する写真のほとんどは洋服姿で撮影されている。
ただ、「西洋のものはすべて正しい」
と言わんばかりの浅子に対して、
当時の大阪毎日新聞は
こんな皮肉たっぷりのコラムを載せている。
浅子女史は洋服が好きだ。
生まれ落ちるとき洋服を着ていなかったのが
残念に思われるほど、洋服が好きだ。
小篠綾子と洋服
大阪・岸和田の呉服屋の長女として育った
小篠綾子は洋服が大好きだった。
ふとんの裏地を縫い合わせて自分のワンピースをつくった。
女学校をサボっては、町で唯一ミシンのある店に通いつめた。
そのことは父の耳にも入る。
呉服屋からしてみれば、洋服屋は商売仇。
「許して」「あかん!」「許して」「あかん!」
父の反対を押し切り、
ミシンや裁断の勉強をするために学校を中退。15歳だった。
およそ20年後。着心地がよくおしゃれな洋服が評判になった
コシノ洋装店に、ある注文が届く。自分が中退した母校から、
制服をつくってほしいという依頼だった。
洋服は時代とともに変わり続けるが、
ぴかぴかの服を着る喜びは、今も昔も変わらない。
福沢諭吉と洋服
今から144年前。福沢諭吉は大学内に
衣服仕立局という洋服屋をつくった。
当時、洋服は半年分の学費に相当する超高級品。
西洋を学ぶ若者たちのために
国産・低価格の服を仕立てて販売した。
洋服の便利なるは今更いうに及ばず。
一万円札の肖像で和服のイメージが強い福沢先生。
学問だけじゃなく洋服もすゝめていたんですね。
「日本の灯台の父/R・H・ブラントン」明治元年
リチャード・ヘンリー・ブラントン、
日本の灯台の父と呼ばれるイギリス人。
1868年、明治元年に来日。
日本は新政府が発足したばかりで、紛争が絶えなかった。
日本に在留する最初の外国人土木技師だった私は、
来日間もなく各方面から援助を求められる立場にあった。
彼は灯台技師として日本に赴任したにもかかわらず、
日本政府は横浜・東京間と大阪・京都間の
電信線架設を命じられた。
灯台を建てる前に
東洋で最初の電信線の架設者となってしまった。
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