1626年4月9日の雪
知は力なり。
この名言で知られる哲学者、フランシス・ベーコンは、
雪によって運命を狂わされてしまった一人である。
晩年、彼は冷凍技術に興味をもっていた。
そしてある雪の日。
思いつくまま外に飛び出し、
鶏のお腹に雪を詰め込むという冷凍実験を行ったところ、
なんと、身体を冷やしてしまったベーコンは
そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
残念な最期だが、
雪を見て胸を躍らせた彼の気持ちには、共感してしまう。
1626年4月9日の雪
知は力なり。
この名言で知られる哲学者、フランシス・ベーコンは、
雪によって運命を狂わされてしまった一人である。
晩年、彼は冷凍技術に興味をもっていた。
そしてある雪の日。
思いつくまま外に飛び出し、
鶏のお腹に雪を詰め込むという冷凍実験を行ったところ、
なんと、身体を冷やしてしまったベーコンは
そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。
残念な最期だが、
雪を見て胸を躍らせた彼の気持ちには、共感してしまう。
1860年3月3日の雪
1860年3月3日。
季節外れの大雪に見舞われたその日、
井伊直弼は、水戸浪士らによって暗殺された。
彼の護衛は五十名を超え、普段であれば負けるはずもない戦い。
ところが雪に備えた重装備であったため
すぐに刀を抜くことができず、わずか十数名の敵によって、
井伊直弼は首を落とされてしまったのである。
知らせを聞いて駆け付けた武士は、そのときの光景をこう語った。
「雪は桜の花を散らしたように血染となっていました。」
桜田門外の変ー。
もしも雪が降っていなければ、歴史は変わっていたかもしれない。
1998年1月8日の雪
その日は雪が降っていた。
1998年1月8日。全国高校サッカー決勝。
試合開始時の気温は0.8℃。湿度は94%。
一面まっ白に染まった国立競技場は
まともなプレーができる状態ではなかった。
前半終わって1-1。ハーフタイム中に
ゴール手前の雪がとりのぞかれた。
結果的に、そのことが試合の流れを変えた。
後半5分。東福岡高校の10番・本山が
ほんの少しだけ緑が見えるペナルティエリアに
ドリブルで切り込む。帝京のディフェンダーが
いなくなったスペースに9番・青柳が飛び込んで
逆転ゴール。
後に本山はこう語った。
「みんな覚えてくれている。
雪があったおかげだと思います」
まっ白な雪は、
ドラマを色鮮やかにする舞台装置でもある。
1936年2月26日の雪
1936年2月26日。
雪の東京は、その日クーデターで血に染まった。
世に言う2・26事件。
作家の尾崎士郎はこの日のことを回想し、
こう書き残している。
「雨でなくてよかった。小春日和でなくてよかった。
雨だったらどんなに陰惨な記憶を残したであろう。
小春日和であったら私は生きることに望みをうしなったかも知れぬ。
しかし、幸いにも雪の日であった。」
雪で覆ってしまいたいような日が、
歴史には存在する。
sabamiso
天才意匠家 小村雪岱 『デビュー作』
小村雪岱(こむらせったい)をご存知だろうか。
明治20年、埼玉県川越市生まれ。
東京美術学校で日本画を学び、
泉鏡花「日本橋」の装幀を手がける。
この小説は起稿されましてから
お書き上げになりますまでに
1年近くおかかりであった様に
記憶しております。
装幀は先生のお言葉で私がいたしました。
本の装幀は、これが初めて。
しかし大胆かつ繊細。息を呑むほどの美しさ。
これ以降、鏡花本の装幀のほとんどを雪岱が引き受けた。
天才意匠家 小村雪岱 『泉鏡花』
小村雪岱という人物を伝えるのは難しい。
「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」。
大正、昭和にかけて活躍した。
東京美術学校時代に泉鏡花の小説を知り、夢中で読んだ。
その後、縁あって泉鏡花本人と知り合う。
しばらくの間、誠に丁寧なお言葉で様々のお話が
ございましたが、有頂天の私は何も覚えておりません。
この時、鏡花から「遊びにおいで」と言われた雪岱は、
嬉しさのあまり生来の引っ込み思案も忘れ、
木彫りの地蔵菩薩を持って泉宅を訪れる。
そして雪岱の装幀家としてのキャリアが始まったのだ。
大胆にして繊細な作風を思わせる行動だった。
天才意匠家 小村雪岱 『女性像』
「装幀家」「挿絵画家」「舞台美術家」「日本画家」として
大正、昭和にかけて活躍した、小村雪岱。
その作風は、大胆にして繊細。極限まで要素を削り、
必要最小限の線描と着色を行う。
雪岱の描く女性は、無機質でセクシャルな雰囲気がほとんどない。
幼少期に母親と生き別れた経験のせいかもしれない。
たとえていえば私は幼いころ見たある時ある場合の
母の顔が瞼の裏に残って忘れられません。
口では言い現せない憧れに似た懐かしさを感じて
懐かしさを感じてこれが私の好きな女の顔の一つなのです。
雪岱は仏像や人形を手本にして絵を描く。
自分の書く人物には個性がないという。
それは能面の持つ力に似たものをこいねがっているからだ。
能面は唯一の表情だが、演技によって
泣いているようにも笑っているようにも見える。
個性のない表情のなかにかすかな情感を現したいのです。
晩年になってもその念願を達成したことはないという。
天才意匠家 小村雪岱 『資生堂』
鏡花本の装幀で一躍有名になった小村雪岱は、
大正7年、資生堂意匠部に招聘される。
従来の仕事を自由に続けてよいという破格の条件だった。
海外の名士への贈呈品となる、香水「菊」をデザインする。
同時に里美弴(さとみとん)の新聞小説「多情仏心」の挿絵も手がけ始める。
多忙のようだが実際はのんびりしたものだった。
当時暇が多かった資生堂に10時に出勤して
一枚挿絵を描いては帰りに届けた。
大正12年、資生堂ロゴの制作を開始。
しかし、関東大震災で作業中の資料はすべて焼けてしまう。
資生堂書体は昭和2年に完成するが、
雪岱がどう関わったかは不明のままである。
天才意匠家 小村雪岱 『挿絵画家』
鏡花本の装幀、資生堂の意匠部とキャリアを積んできた小村雪岱を、
さらに有名にしたのは新聞小説の挿絵だった。
邦枝完二作「おせん」。
江戸三美人と呼ばれた谷中の「笠森お仙」を
モデルにした悲恋物語だ。
画面に大きな余白を取る構成、
線の数を絞りキリリとした硬質な直線を引く。
新聞紙面全体の煩雑さの中に置かれる挿絵が、
如何に独自の空間を確保できるか考えぬいたかのようだ。
挿絵の仕事はいわゆる「白と黒」だけの世界であるから
彩色画とは違った何か特殊なものがあるのではいかという
質問をしばしば受けるが、私はそれについて
特別の苦心をした覚えはない。
雪岱は至って淡々としている。
静謐だが内に秘めた激しい情念を感じさせる。
彼の描く挿絵そのもののように。
天才意匠家 小村雪岱 『舞台美術』
鏡花本の装幀、香水瓶のデザイン、新聞小説の挿絵、
幅広いジャンルで活躍した小村雪岱は、歌舞伎の舞台装置も手がけていた。
昭和6年初演の「一本刀土俵入」は、今でも雪岱の舞台装置原画を踏襲している。
考証にこだわる雪岱は、茨城県取出周辺まで現地取材に出かけたという。
大勢でやる仕事だけに色々な無理も出ますし、
相当難しいものです。
そう語った雪岱だか、他にも「娘道成寺」や「藤娘」など
雪岱の残した原画を再現した舞台は数多い。
雪岱本人の新作は見ることができないが、
その美へのこだわりを鑑賞することはできる。
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