「愛の手紙」夏目漱石
おれのような不人情なものでも頻りに御前が恋しい。
ロンドン留学中の夏目漱石が
妻・鏡子に送ったラブレターは有名だ。
このとき鏡子は何を思っていたか。
いろんな男の人を見てきたけど、
あたしゃお父様がいちばんいいねぇ。
もし船が沈没して漱石が戻って来なかったら、
あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ
悪妻と言われる鏡子だけれど、
彼女なりの愛し方で漱石を思っていた。
「愛の手紙」夏目漱石
おれのような不人情なものでも頻りに御前が恋しい。
ロンドン留学中の夏目漱石が
妻・鏡子に送ったラブレターは有名だ。
このとき鏡子は何を思っていたか。
いろんな男の人を見てきたけど、
あたしゃお父様がいちばんいいねぇ。
もし船が沈没して漱石が戻って来なかったら、
あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ
悪妻と言われる鏡子だけれど、
彼女なりの愛し方で漱石を思っていた。
「愛の手紙」川端康成
川端康成は、執筆のため逗留していた群馬の旅館から
妻・秀子に、怒りに満ちた手紙を出した。
新潮と文藝7月号送れ、
なぜ報告の手紙をよこさんのだ、馬鹿野郎、
手がくさつたつて代筆されることも出来るだらう、
さういふ投げやりな、きちんと片付けない、
ずるずる延ばしの性質が、とても助からん気をさせるのだ。
罵倒の言葉が延々と続く。
怒鳴りに帰ろうかと思った、とか、
仕事の疲れで気もまぎれないので
「婆さんのような顔」になった、とか。
怒ってはいるが、どこかしら可愛げのある文章だ。
妻に甘えているのかもしれない。
そんな文豪の素顔が垣間見える。
「愛の手紙」梶井基次郎
宇野千代をめぐって梶井基次郎と尾崎士郎が決闘をした。
という噂があった。
このとき尾崎と千代は結婚していた。29歳と30歳。
それぞれ作家としてすでに世に出ていた。
梶井は「檸檬」をはじめいくつかの短編を同人誌に発表していたが、
まだ無名の存在だった。伊豆の湯が島で千代に出会い恋をした。
では、千代はどうだったのか。
私は梶井を尊敬していたのでせうか。
或ひは梶井を恋ひしていたのでせうか。
あるインタビューでは、
面食いの私が梶井基次郎に惚れるはずもない、
と言っている。
梶井は妻をめとらず、恋人ももたず、
女性との情交を小説に書くこともないまま、
独特の世界を作り上げ、31歳で早世してしまった。
千代に大量の手紙を書いているが、
千代はそれらをすべて捨てたという。
ほんとうのところは、もう誰にもわからない。
「愛の手紙」森鴎外
森鴎外は日露戦争のとき、約2年の間に
出征先の満州から妻・しげ子や
家族に宛てて、140通におよぶ手紙を送っている。
茉莉ちゃん。お前は病気の時
かあさんにくツついてこまらせたというふことだね。
親だものをくツつくのはあたりまへだ。
病気でない時もくツついてこまらせておやりよ。あばよ。
小説とは違うやわらかな言葉。おどけた文章。
当時、妻と鴎外の母の仲は険悪であった。
自分の留守の間、妻の気持ちを引き立てようと
手紙を書き送っていたのかもしれない。
「愛の手紙」山口瞳
直木賞作家・山口瞳が妻となる治子に出会ったのは19歳の時。
ある時、仲間内で治子の誕生日を祝う集まりがあった。
その夜、山口は治子に初めての手紙を書く。
・・・今、洋服を浴衣に取り変へます時、
貴女とブツケツコしたブドウの一粒がつぶれた儘で
おヘソの辺りから出て来たのですが、
その一粒のグチャグチャな果実を見て居りますと
今日の一日が偲ばれて・・・・・
治子と一緒にボートに乗っていた仲間が憎らしくて
ブドウをぶつけたり、ボート競争をしたりしたが、
山口はかなわず、ヤリキレナイ気持ちになったという。
そのことがユーモアたっぷりに書かれている。
正確には、これは手紙ではない。
治子のためにお祝いの寄せ書きをした手帳を
山口は持って帰っていた。
手帳が返されたときに書かれていたのだ。
治子は、この文章を読んだときに甘酸っぱいような気持ちが胸にあふれ、
すぐに返事を書いた。ここからふたりの恋愛がはじまった。
「愛の手紙」中島敦
「山月記」といえば、多くの高校教科書に採録されている、
中国の古典を題材にした物語だ。
その作家、中島敦は次男が生まれた頃、ミクロネシアでの仕事を得る。
南洋の気候が持病のぜんそくにもいいだろうと単身赴任した。
子煩悩だった中島は、子どものことを思うと仕事が手につかない。
何か、人事不詳になるやうな
劇しい(はげしい)病気にでもなって、
フト、目が覚めてみたら、お前達の傍にいた、
といふやうなことになればどんないいだらう。
漢文調の物語を書いた人物とは思えない。
家族とはなれた寂しさからか中島は体調を崩し、
9ヶ月足らずで帰国した。
「愛の手紙」植村直己
冒険家・植村直己の不器用なプロポーズ。
その手紙は公子のもとにカトマンズから届いた。
私のようなバカな人間は、
とても公ちゃんに近づけるものではないですが、
私とて、人間にて、心を押さえることができませんでした、
俺のような悪人につかまってしまったと、
一生を棒にふってしまったとあきらめて下さい。
自分を救ってくれる人は君だけだと熱く懇願する。
この旅から帰ってまもなくふたりは結婚する。
その結婚生活はわずか10年だった。
「愛の手紙」小林多喜二
あーまたこの二月の月かきた
ほんとうにこの二月とゆ月
いやな月 こいをいパいになきたい
どこいいてもなかれない
蟹工船の作家・小林多喜二の母・セキの文章だ。
多喜二は警察で拷問の末に殺された。
それが二月だった、
読み書きができなかったセキは
獄中の息子に手紙を書きたい一心で文字を覚えはじめた。
「こいをいパいになきたい」とは声をいっぱいに泣きたい、
ということだ。セキは家族に涙を見せたことはなかった。
誰かに見せるために書いたわけではない。
しかし、その悲しみは多くの人に届く。
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