Zanpei
奈良の大仏と開眼供養
西暦752年の4月9日。
奈良の東大寺で大仏の開眼供養が行われた。
しかしその時点で大仏は完成しておらず、
まだ仕上げ作業の多くを残していた。
飾りなどを含めて最終的に完成したのは、
さらに約20年後のこと。
開眼供養の年は
仏教伝来から200年目の節目に当たり、
どうしても間に合わせることが
必要だったのではないかと推測されている。
納期に追われる厳しさは、
天平の昔から同じらしい。
Zanpei
奈良の大仏と開眼供養
西暦752年の4月9日。
奈良の東大寺で大仏の開眼供養が行われた。
しかしその時点で大仏は完成しておらず、
まだ仕上げ作業の多くを残していた。
飾りなどを含めて最終的に完成したのは、
さらに約20年後のこと。
開眼供養の年は
仏教伝来から200年目の節目に当たり、
どうしても間に合わせることが
必要だったのではないかと推測されている。
納期に追われる厳しさは、
天平の昔から同じらしい。
奈良の大仏とヘアスタイル
大仏さまの頭についているたくさんの突起。
これは渦巻き状の髪の毛で、「螺髪(らほつ)」という。
奈良の大仏の場合、
ひとつの螺髪は直径が約22cm、高さが約21cm。
重さは約1.2kgにもなる。
ただ、それが何個取り付けられているのかは
これまで正確に数えることができなかった。
しかし2015年に東京大学の研究者が
レーザー解析によって螺髪の数を算出。
492個の螺髪が取り付けられているとわかった。
奈良時代からの伝承では「966個」とされてきたが、
その約半分。定説を覆す結果だ。
江戸時代に造り直されたときに減ったのか、
もともと少なかったのか。
理由はわからない。
大仏さまは、髪の毛一本までミステリアスだ。
KE-TA
奈良の大仏と経済効果
奈良の大仏の建造費を、当時の資料などから
経済学者が試算したことがある。
まず原材料費については、大仏に使った精錬銅 約500トンや
大仏殿の柱の丸太84本など、約3363億5000万円。
そして人件費。建造に携わった人だけで
延べ260万人以上にも及ぶといい、約1292億円。
さらに彼らの住居費として、約1億7000万円。
積算すると、大仏と大仏殿の建造費は
現在の価格で約4657億円となる。
もっともこの試算には石材や内部装飾、
東大寺の他の建築物にかかった費用は含まれていないので、
実際にはもっと多くのお金が動いたはずだ。
建造にかかわった人々の消費なども含めた経済波及効果は、
約1兆246億円に上るという。
これだけ大規模な「公共事業」。
いまならかなりの景気対策になりそうだが、
やはり現代と奈良時代では状況が違う。
かつてない大規模な建設工事によって国の財政は大きく悪化。
とりわけ農民の負担が激増し、
平城京のなかでは浮浪者や餓死者が後を絶たなかった。
地方によっては農民たちが逃亡して税制が崩壊するなど、
律令政治の矛盾点が浮き彫りになっていった。
仏教で世の中を救おうとする聖武天皇の願いとはほど遠い結末。
やがて都も京都の平安京へと移される。
奈良に残された大仏は、
どんな思いで世の移ろいを見つめていたのだろう。
奈良の大仏と平和
平和を守るためにつくられた奈良の大仏だが、
現実には戦火によって二度も焼失している。
はじめは、源平の合戦。
そして二度目は、戦国時代。
しかしそのたびに
人々の力を集めて大仏は再建された。
いま現存している奈良の大仏は、
江戸時代、太平の世になってからのものだ。
大仏が焼けずにすむということが、
平和の証と言えるかもしれない。
平和を守るのは、私たち人間の役目なのだ。
Takashi(aes256)
鎌倉の大仏と作家
時代小説からノンフィックションまで、
幅広い活躍で知られた作家の大佛次郎。
大仏(だいぶつ)と書いて「おさらぎ」と読むこのペンネーム、
由来は鎌倉の大仏さまだ。
作家として活動をはじめた頃、大佛は鎌倉大仏の裏手に住んでいた。
本物の大仏が太郎だから、謙遜して自らは「次郎」としたのだという。
その後も彼は自然と歴史のある街並みを愛し、
生涯を鎌倉で暮らした。
しかし日本が高度成長期を迎えた頃、
鎌倉にも宅地開発の波が迫ってきた。
街のシンボルである鶴岡八幡宮の裏山までもが
そのターゲットとなったのだ。
当時は自然や景観を保護するということに対して、
まだ一般的な関心が低かった時代。
そのときいち早く反対の声を上げたのが、大佛だった。
開発への反対運動は、一般市民はもちろん、
川端康成や小林秀雄、鏑木清方、伊東深水といった
文化人にまで幅広い支持を集めた。
そしてイギリスのナショナル・トラスト運動を参考にして
大佛が立ち上げた「鎌倉風致保存会」によって
開発予定だった山林1.5ヘクタールの買収と保存が決まる。
さらにこれをきっかけとして、
1966年には「古都保存法」が制定された。
大佛次郎の尽力がなければ、
いまの風景は残っていなかったに違いない。
鎌倉の街は、もうひとりの大仏さまに守られたのだ。
bryan…
鎌倉の大仏と大統領
今年1月、8年間の任期を終えた
アメリカのバラク・オバマ大統領。
2009年に大統領として初来日した際の演説では、
少年時代に母親と鎌倉に行ったエピソードを披露した。
まだ小さかったオバマ少年は、
大仏よりも抹茶アイスクリームのほうに
夢中だったそうだ。
その翌年、再び来日したオバマは、
鎌倉を訪れている。
大仏さまに見守られながら
思い出の抹茶アイスを味わった大統領は、
ゲストブックにこう書き残した。
日本文化のすばらしい宝と再会できて光栄だ。
この美しさは何年も私の記憶に残っている。
campra
鎌倉の大仏と女流歌人
鎌倉大仏の裏手には、
有名な与謝野晶子の歌碑がある。
かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
美男におはす 夏木立かな
与謝野晶子は「釈迦牟尼」と詠んだが、
正しくはこの大仏は「阿弥陀如来」。
美男と褒められたはいいが、
名前を間違えられては
大仏さまも複雑な気分だろう。
京の大仏と天下人
大仏といえば奈良と鎌倉。
しかし、かつては三大大仏に数えられる
もうひとつの大仏があった。
天下を統一した豊臣秀吉が、
晩年になって京都・方広寺につくらせたものだ。
記録によれば、その高さは19m。
奈良の大仏が15mほどだから、その巨大さがわかる。
しかし、そんな方広寺の大仏も
慶長伏見大地震によって倒壊してしまう。
倒れた大仏を見て秀吉はこう言い放ったという。
かように、わが身を保てえざる仏体なれば、
衆生済度(しゅじょうさいど)は、なかなか思いもよらず。
自分の身も守れない仏に
人々を守れるものか、と激怒したのだ。
さらに大仏めがけて矢を射かけたという話まで残っている。
もしかしたら、自分亡き後の不安が
秀吉をそこまで苛立たせたのかもしれない。
方広寺の鐘の銘をきっかけにして
豊臣家が滅んだのは、
それから19年後のことである。
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