2017 年 4 月 16 日 のアーカイブ

奥村広乃 17年4月16日放送

170416-01

物理学者の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

その少年は、子どものころ勉強が大嫌いだった。
4歳になっても、話すことが苦手だった。
学校では、空想ばかりしている問題児だと思われていた。

だが彼は、後に相対性理論を発表する。
そう。
その少年の名前は、アルベルト・アインシュタイン。
天才物理学者だ。

彼の有名な言葉にこんなものがある。

「天才とは努力する
 凡才のことである。」

常識にとらわれず、考え続けた人が
ひとつ飛び出た存在になる。
過去の知識は、検索でなんでも手に入る時代。
未来を作る人は、考える努力を続けられる人なのだろう。

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奥村広乃 17年4月16日放送

170416-02

作曲家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

天才作曲家、モーツアルト。
生涯で600にものぼる数の楽曲を作成したと言われる。
彼の天才っぷりは、子どもの頃から発揮されていた。

3歳で音楽をはじめ、
4歳でチェンバロを弾きこなし、
5歳ではじめての作曲。

6歳の頃、当時7歳であったマリーアントワネットに
プロポーズをしたという逸話も残されている。

長調の明るい曲を多く生み出したモーツアルト。
彼はこんな言葉を残している。

「夢があるから、人生は輝く。」

すべての夢が叶う、なんて夢のようなことはない。
けれど人は、夢を持った方が人生は彩りに満ちるのかもしれない。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-03

野球への弾圧

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

日本プロ野球黎明期の
伝説のエース沢村栄治。
150キロ後半と推定される豪速球に
アメリカの強打者ベーブ・ルースも舌を巻いた。

プロ野球が始まった1936年、
巨人軍を優勝に導き、
翌年は史上初のMVPを獲得。
2年続けてノーヒットノーランを達成する、
まさに大スターだった。

だが次の年、沢村は戦場にいた。
投げていたのはボールよりはるかに重い手榴弾。
今22歳の大谷翔平投手と、ほぼ同じ年齢だった。
プロを辞めた沢村は、
さらに二度も戦地に招集され、27歳で戦死。

野球は敵国アメリカの文化だと
軍部に弾圧されていた時代。
日本のエースの大志は、
運命に握りつぶされたのだ。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-04

現実を見る力

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

映画監督、黒澤明は
幼い頃、兄に連れ出されて
関東大震災の焼け野原を見に行った。

おびただしい遺体の数。
思わず目をそむけ、怯える弟に、
「よく見るんだ、明」と兄は言った。

「怖いものに眼をつぶるから怖いんだ。
 よく見れば、怖いものなんかあるものか」

のちに世界を驚かせる映画を
次々と撮ることになる明少年。
彼に大志を抱かせたのは、
現実の中の真実を見つめろ、という
兄の哲学だったのだ。

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澁江俊一 17年4月16日放送

170416-05

太陽だけが友達

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

芸術家岡本太郎は
数奇な少年時代を過ごした。

一斉を風靡した漫画家である父一平と
小説家・歌人である母かの子との間に
太郎は生まれた。

家庭を顧みることのない父と、
子どもを育てようとせず
愛人を家に住まわせていた母。
家にも学校にも居場所のなかった
小学1年生の太郎の話し相手は
青空に毎日顔を出す「太陽」だけだった。

世界を照らす太陽の大きさと、
自らを燃やし、輝き続けるエネルギーは
どれほど勇気をくれたことだろう。

太郎少年に大志を抱かせた
熱く燃えさかる太陽は、
生涯に渡って芸術の重要なモチーフとなった。

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松岡康 17年4月16日放送

170416-06

喜劇王の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

見るものすべてを笑顔にする、喜劇王チャップリン。
彼の少年時代は笑顔とはかけ離れたものだった。

1歳のときに両親が離婚。
貧乏な舞台女優だった母親のもとで育てられ、貧しい生活を送る。
5歳のときには、舞台に立っていた母が喉をつぶしてしまう。

母親は二度と舞台に立つことができず、のちに精神に異常をきたし
施設に収容された。

貧しいチャップリンは子供ながらに職を転々とし、
時にはコソ泥まで働いたという。

チャップリンは言う。

 無駄な一日。それは笑いのない日である。

つらい少年時代が作りあげた信念
それは人を笑顔にし続けることだった。

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礒部建多 17年4月16日放送

170416-07

天才的音楽家

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

稀代の音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハ。
彼の才能は、幼い頃から光り輝いていた。

ヨハン少年が11歳の時のこと。
初めてオルガンに触れたのにも関わらず、彼は完璧に演奏してしまったのだ。

有名な音楽一家に生まれたが、
その家族全員からも一目置かれた存在だった。
音楽の先生であった兄は教育のために、
ヨハンにあえて楽譜を一切見せないようにした。
下手に他の音楽家の癖や影響を受けて、創造性を損なわせないためだ。
ヨハン少年は、誰よりも純粋に自分の音楽と向き合っていった。

そうして後に、「近代音楽の父」と呼ばれるまでに成功を収めることになる。
音楽の境地へと辿り着いたヨハンは、こう述べたと言う。

 「音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない。」

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松岡康 17年4月16日放送

170416-08

建築家の少年時代

今日はクラーク博士が
「ボーイズ ビー アンビシャス」
の言葉を残した日。

水平に長く伸びる薄い屋根。
構造から独立した石の壁が自由に配置され、流動的な空間を作っている。
近代建築の最高傑作ともいわれるバルセロナパビリオン。
この作品を設計したのが
20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエだ。

1886年ミースは石工一家の息子として生まれ、
幼いころから父の傍らで仕事を手伝った。

当時、建築家になるには大学で建築学を学ぶことがあたりまえの時代。
そんな時代にあって、ミースは正規の建築教育を一切受けていなかった。
彼は「ものを作る」ということを、体で学んでいったのだった。

ミースは言う。

 神は細部に宿る。

机の上で学ぶのではない。手で学ぶことで、得られる境地がそこにはあった。

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