2017 年 9 月 のアーカイブ

茂木彩海 17年9月24日放送

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涙のはなし 涙のアート

今年の夏、東北の復興に捧ぐ芸術祭が
宮城県・石巻市で行われた。

国内外36組のアーティストが参加したこの芸術祭で
話題を呼んだ、ひとつのアート作品がある。

作品の名前は、「ひとかけら」。
制作したのは、アーティスト集団、チン↑ポム。

この作品は、現地の人々に震災の時の話を聞き、
話をしながら流した涙をあつめて凍結したもの。

作品自体は、牡鹿半島中部の洞仙寺に埋めた
冷凍コンテナの中にあり、地下まで階段を下りてはじめて
作品を見ることができる。

制作に至るきっかけとなったのは、遺族の言葉。

悲しみの涙はもういらないから
楽しいときに涙を流したい。

「ひとかけら」。その作品は、
涙は時に、前を向くために必要なものだと、教えてくれる。

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石橋涼子 17年9月24日放送

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涙のはなし 渥美清の泣いてたまるか

昭和41年に放送されたドラマ「泣いてたまるか」。
俳優の渥美清が、毎回違う役柄を演じる、
一話完結型の人情ドラマだ。

主題歌は、良池(よしいけ)まもるが詞を書き
渥美清が歌った。

天(そら)が泣いたら雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても 何にも出ない

だから、泣いてたまるか、と歌う渥美清が演じる主人公は、
毎回、異なる設定で異なる人生を背負っているけれど、
誰もがみんな不器用で真っ直ぐで、生きることに全力だ。
見ている方は、泣けるし、笑える。

庶民を演じて庶民を応援する、
渥美清らしさを味わうドラマ「泣いてたまるか」は、
「男はつらいよ」のルーツになったことでも有名だ。

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石橋涼子 17年9月24日放送

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涙のはなし バイロン卿の言葉

夜が怖くて泣いた子どもも、
お菓子を落として泣いた子どもも、
大人になると、なかなか涙を流さなくなる。
それは、心が強くなったということだろうか。

イギリスの詩人・バイロン卿の、こんな言葉がある。

忙しい人間は、涙のための時間を持たない。

大人が泣かないのはただ忙しいから、
と考えるのは少々寂しいものがある。

だからたまには泣こう、と言うのも極端だ。
たまに、子どもの頃に流した涙を思い出す
そんな時間を持ってみるのは、どうだろうか。

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川野康之 17年9月23日放送

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1978年のスワローズ その1

1978年のスワローズ

1978年は特別な年だった。
球団創設以来一度も優勝したことがないスワローズは、
その春アメリカ・ユマでキャンプを行っていた。
そこに1人のアメリカ人選手が、バット1本を持ってやってきて、
入団テストを受けた。
選手の名前はデーブ・ヒルトン。
脚を大股に開き、背中を大きく丸めた打撃フォームが独特だった。
テストに合格したヒルトンは、
内野手・一番打者としてチームに加わった。
彼は、オープン戦から打ちまくった。
そのプレーは、泥臭く、常に全力疾走で、気迫にあふれていて、
チームに影響を与えた。

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川野康之 17年9月23日放送

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1978年のスワローズ その2

1978年のスワローズ

4月1日の開幕戦。
1回、先頭打者のヒルトンは、
鋭い音を響かせてレフト線にヒットを打った。
全力疾走で一塁ベースを回り、二塁まで達した。
シーズンはここから始まった。
開幕3連戦を、スワローズは18得点を挙げて勝利した。
万年負け犬だったチームが今年はどこか違う。
新しいスワローズにファンは目を見張った。

そのときの開幕戦を、
神宮球場の外野席でスワローズファンの村上春樹が見ていた。
ヒルトンが二塁打を打った瞬間、
彼は「小説を書いてみよう」と思い立ったのだという。

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川野康之 17年9月23日放送

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1978年のスワローズ その3

1978年のスワローズ

スワローズのクリーンアップは個性派ぞろいだった。
三番、小さな大打者、若松勉(つとむ)31歳。
四番、怒れる赤鬼、チャーリー・マニエル34歳。
五番、月に向かって打つアッパースイングの大杉勝男33歳。
広岡達朗監督の管理野球のもとで、
ベテランたちはのびのびと自分らしくバットを振った。
3人合わせて86本塁打、271打点を挙げた。
このシーズン、スワローズの全130試合のうち、
無得点に終わったのは1試合だけだったという。
リーグ最強にして、もっとも個性的で、
もっとも恐れられたクリーンアップだった。

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川野康之 17年9月23日放送

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1978年のスワローズ その4

1978年のスワローズ

シーズン後半、
スワローズはジャイアンツと激しい首位争いを演じていた。
一度も手にしたことのない優勝がちらちらと視野に入る中で、
苦しい戦いが続いた。
万年Bクラスの弱いスワローズを引っ張ってきた
エースの松岡弘(ひろむ)が、ジャイアンツを完封し、
チームに勇気を与えた。
六番杉浦亨が逆転サヨナラ3ランホームランを打ち、
3試合連続サヨナラ勝ちをして、チームは加速した。
優勝が決まった瞬間、松岡がマウンドでカエルのように跳ねた。
その姿が選手たちの背中ですぐに見えなくなった。
彼らはもう負け犬ではなかった。

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川野康之 17年9月23日放送

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1978年のスワローズ その5

1978年のスワローズ

リーグ優勝をしたスワローズは、日本シリーズに進み、
ブレーブスを破って日本一になった。
多くの人々が、スタンドで、テレビの画面でそれを見守った。
1978年は特別な年だった。
スワローズの選手たちにとってだけでなく、ファンにとっても。

村上春樹は、その年の秋のことをこう書いている。
「素晴らしい天候が続く、とりわけ美しい秋だった。
空が抜けるように高く、絵画館前の銀杏並木が
いつにもましてくっきりと黄金色に輝いていた。」

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蛭田瑞穂 17年9月17日放送

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美味なるイタリア料理 アントニオ・ラティーニ

1554年、ナポリに一隻のスペイン船が入港した。
この時初めてイタリアにトマトが伝わったと言われている。
その後、トマトは主に観賞用として栽培されることになった。

トマトを初めて料理のソースとして用いたのは
17世紀のナポリの宮廷料理人、アントニオ・ラティーニ。

あぶって細切れにしたトマトを玉葱、胡椒、ピーマンなどと混ぜ、
塩、オリーブオイル、酢で味をととのえる。
これがラティーニの考案したトマトソースのレシピ。

のちの料理人たちがこのソースにさまざまな工夫を加え、
パスタと組み合わせた。
そしてトマトソースは世界でもっとも人気のあるパスタソースとなった。

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蛭田瑞穂 17年9月17日放送

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美味なるイタリア料理 ジョヴァンニ・デル・トゥルコ

多くの人が好む、パスタのアルデンテ。
しかし、17世紀になるまでパスタは
30分から2時間ほども茹でるのがふつうだった。

アルデンテはいつ誕生したのか。

17世紀のフィレンツェの音楽家で、
料理家でもあったジョヴァンニ・デル・トゥルコは
その著書『エプラリオ』の中でこう記している。

 マッケローニは長く茹でないほうがよろしい。
 茹でたあとただちに冷水をかけること。
 それがマッケローニをシャキッと引き締める。

これがアルデンテの起源と言われている。

絶妙にコシの残るおいしいパスタが食べられるのは、
ジョヴァンニさんのおかげかもしれない。

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