Tuxyso
アルハンブラ 建築
13世紀の後半、
キリスト教の勢力に追われたイスラム圏に残されたのは
グラナダを中心としたアンダルシア南部だけになっていた。
首都は当然グラナダで、
イスラムの王はこの土地をいつくしみ、
砦を広げ、水道を引き、庭園をつくり、宮殿を建てた。
皮肉なことに
アルハンブラが大きく拡張されたのは
イスラムの残照ともいうべきこの時期だったのだ。
1492年、グラナダは陥落し、
アルハンブラ宮殿はキリスト教徒の手に落ちる。
Tuxyso
アルハンブラ 建築
13世紀の後半、
キリスト教の勢力に追われたイスラム圏に残されたのは
グラナダを中心としたアンダルシア南部だけになっていた。
首都は当然グラナダで、
イスラムの王はこの土地をいつくしみ、
砦を広げ、水道を引き、庭園をつくり、宮殿を建てた。
皮肉なことに
アルハンブラが大きく拡張されたのは
イスラムの残照ともいうべきこの時期だったのだ。
1492年、グラナダは陥落し、
アルハンブラ宮殿はキリスト教徒の手に落ちる。
アルハンブラ 水
アルハンブラ宮殿に水道が引かれたのは13世紀。
当時のイスラムの王ムハンマド一世とムハンマド二世の
二代にわたる大工事だった。
アルハンブラにはふんだんに水がある。
池、噴水、滝、水路。
ガイドの説明によると
これらの水はシエラネバダの雪解け水だそうだ。
シエラネバダはグラナダの南に連なる山脈で
標高3478メートル。
標高差を利用してサイホンの原理で水を運ぶ。
グラナダが陥落したとき
最後の王ムハンマド11世はシエラネバダに落ちのび
アルハンブラを振り返って惜別の涙を流したという。
アルハンブラ 色
アルハンブラ宮殿の「アルハンブラ」は
アラビア語のアル・ハムラー「赤い城」が語源だという。
なぜ赤なのかについては諸説がある。
周辺の土が赤土だから。
宮殿はもともと赤い漆喰で覆われていたから。
そして、建築の際に
夜を徹してかがり火を焚いて工事をしたから
赤く見えたのだという説もある。
お天気のいい夕暮れ、
グラナダの展望台にはたくさんの観光客が訪れる。
そこで目にするのは夕日で赤く染まったアルハンブラだ。
美しさのひみつ 〜アイシャドウ〜
アイシャドウは、紀元前3500年頃には、
古代エジプトではじまっていたと言われている。
今では、目を大きく見せたり、華やかに見せたり
目元のおしゃれ目的で使用されているアイシャドウ。
当時は、虫除けとして使用されていた。
古代エジプトは、空気が乾燥している上に、
衛生状態が悪かったため、
ハエなどの害虫が、水分を求めて人間の目に集まってきてしまい
感染症を引き起こしてしまうということが
日常茶飯事であった。
そこで、孔雀石を砕いた緑色の粉末などを
目のふちやまつ毛などに塗り、
それを防いでいたのだ。
この感染症予防を、おしゃれに楽しむことを始めたのが、
世界三大美女で知られるクレオパトラ。
彼女は、使用する鉱物を変え、緑や青、黒、赤褐色と
カラフルな色彩を使って、メイクを楽しんだと言われている。
美しさのひみつ 〜マスカラ〜
アイメイクに新しい風が吹いたのは1913年だった。
トーマス・ウイリアムスというアメリカの若い薬剤師が
妹の恋を成就させるために
ワセリンゼリーに石炭粉を混ぜ、
まつ毛を濃く見せる化粧品を作った。
The eyes are the window to the soul
(目は口ほどにものをいう)
その化粧品はメイベルを大きく見せ
魅力的な印象を与えた。
そしてメイベルの恋は実り
思いを寄せていた彼と結ばれたそうだ。
メイベルの恋を成就させ、
今もなお、多くの女性の恋を支える化粧品、
それがマスカラだ。
美しさのひみつ 〜ヨーロッパの白粉〜
エリザベス1世が生きた中世ヨーロッパでは、
肌は白ければ白いほど美しく、
か弱く不健康そうな女性が上品で美しいとされていた。
そのために食事をとらず、
体調が悪くなるように自分を追い込む人や、
血を抜いてわざと貧血状態になることで、
肌をより青白く見せようとする人もいた。
エリザベス一世も、そのひとり。
儀式のときは、白粉がしっかりと肌にのるように、
下地にはちみつを塗ってから、白粉を塗っていたと言われている。
やがてそれを真似する人があらわれ
エリザベス一世のメイクは当時の女性たちの間で流行になったが…
ハチミツが溶けるので寒い日でも暖房に近づけない。
白い肌への探究心は不健康にヒートアップしていった。
美しさのひみつ 〜美艶仙女香〜
「色の白いは、七難隠す」
江戸時代、色白が美人の第一条件だった。
当時、白粉には、鉛白粉が使われ、
水で溶いて手や刷毛でつけていた。
中でも有名だったのは、
江戸後期に発売された「美艶仙女香」
川柳に「仙女香やたら顔出す本の端」と読まれるほど、
草双紙や浮世絵の
あらゆるところに「美艶仙女香」の文字が多く見られる。
どうして、そんなPRが可能だったのか。
それは、この「美艶仙女香」の販売元が
絵入りの小説類の検閲を行う名主のひとり
和田源七だったからと言われている。
つまり、版元や作者、絵師に無言の圧力をかけられる立場を利用し、
作品のなかにタダで広告を入れたと想像できるのだ。
こうして、多くの民衆の目に触れるようになった「美艶仙女香」は、
あっという間に、江戸で話題の化粧品となった。
美しさのひみつ 〜整形〜
紀元前600年頃のインドでは、
社会的な罰として、鼻を切り落とす習慣があった。
多くの人々は、自分の切り落とされた鼻を持って
ススルタという腕利きの外科医に救いを求めたという。
そこで、彼は鼻の整形術を編み出し、
切り落とされた鼻を縫いつけたり、
額の皮膚を鼻へ移植したりする手術をした。
これが世界初の形成外科手術をいわれる。
その後、第一次・第二次世界大戦を通し、
体の一部を失った兵士の社会復帰のために、
形成外科が医療として確立された。
人のカラダを修復する治療はやがて美容整形へ発展する。
ちなみに日本はいま、美容整形の先進国だ。
美しさのひみつ 〜香水〜
ミューレンス社の創始者であるウィルヘルム・ミューレンスに
結婚のお祝いとして
ある修道士から1枚の手紙が届いた。
その手紙に書かれたレシピに基づいて作られたのが、
アクア・ミラビリス。世界初のオーデコロン。
ミューレンスはその水の製造工場を
ドイツ・ケルンのグロッケンガッセ4711番地に設立し、
販売をはじめた。
当時、フランスの占領下だったケルンに駐留したフランス兵たちが
その水の香りに魅了され
母国フランスの母親や恋人たちに送ったと言われている。
フランス語の「オーデコロン」の意味は「ケルンの水」
アクア・ミラビリスはオーデコロンとして
ヨーロッパ、そして世界へと広まっていった。
美しさのひみつ 〜ヘアカラー〜
平安時代末期、斎藤実盛は
木曽義仲を追討するため、北陸に出陣し
味方が総崩れする中、
一歩も引かずに戦い続け、討ち死した。
戦いが終わって首実検のとき
実盛らしい首はあるが
誰も実盛本人だと確認できない。
しかし、近くの池で、その首を洗ってみると
黒い髪や髭が、みるみる真っ白に変わった。
実盛はかねてから、
「60歳を超えて戦におもむくときは
髪を黒く染めて、若返ろうと思う。
白髪頭で先駆けを争うのも大人げないし
老武者と人の侮りを受けるのも口惜しい」と語っていたという。
そう、彼は戦いの前に、
白い髪の毛や髭を、墨汁で黒く染めていたのだ。
これが、日本におけるヘアカラーのはじまりと言われている。
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