2018 年 4 月 のアーカイブ

河田紗弥 18年4月22日放送

180422-08

美しさのひみつ 〜パック〜

時代が変わっても、女性の美に対する想いは変わらない。

古代ローマの女性たちは、シワやそばかす、
しみへの対策として
パックを使用していた。

特に、シワに効くというロバのミルクも効能に定評があり、
1日に7回もロバのミルクパックをするご婦人もいたのだとか。

このロバのミルク愛用者の中に、
ローマ皇帝ネロの妻ポッパエアがいる。

彼女は寝る前にロバのミルクのフェイスパックをし
全身美白のためにロバのミルク風呂に入り、
旅をするときも100頭のロバを連れて行って
ミルクに事欠かないようにしたという。

女性たちの美容への飽くなき探究心は、
尽きることがない。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-01

春の死 久松俊勝

久松佐渡守俊勝は徳川家康の母、於大(おだい)の
再婚相手だった。
結婚したとき、於大は19歳、俊勝は17歳だった。

30歳半ばで桶狭間の戦いがあり
それ以降は義理の息子である家康に与して戦国を生きた。

50歳のとき、義理の兄水野信元が信長に疑いをかけられ
家康によって殺害されてしまう事件があった。
このとき俊勝は大いに怒って引退してしまったというから
骨のある人物だったのだろう。
妻の於大は俊勝の死後、俊勝の菩提寺で髪をおろし
2年間その菩提を弔った。

久松佐渡守俊勝が亡くなったのは天正15年3月14日。
西暦になおすと1587年4月21日のことだった。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-02
ちいた
春の死 千利休

千利休の命日、利休忌は
表千家では3月27日、裏千家が3月28日に営まれるが、
実際に死んだ日の天正19年2月28日は
西暦になおすと1591年4月21日になる。

利休の死は謎に包まれている。
秀吉が利休に死を命じた原因は何か。
武士でない利休に、
なぜ武士の死にかたである切腹が命じられたのか。

利休が死んだ日、1591年の今日は
大雨が降り、風も強く、春の嵐が荒れていたそうだが、
利休の心は静かだったと思われる。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-03

春の死 浅野内匠頭

江戸の文化華やかなりし元禄14年の春、
江戸城松の廊下で刃傷事件が起こった。

被害者は吉良上野介吉央(よしひさ)
加害者は浅野内匠頭長矩(ながのり)
その日の午前11時40分、
加害者は被害者の後(うしろ)から切りつけ
額と背中に傷を負わせた。
これは江戸城で起こった4番めの刃傷事件だった。

午後6時10分ころ、内匠頭に切腹を告げる使者が来た。

この事件が起こったのは元禄14年3月14日。
西暦になおすと1701年4月21日である。

前日の雨と風で、桜は散っていただろうか。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-04

春の死 柳生十兵衛

柳生十兵衛三巌(みつよし)は
天才といわれた剣の使い手だった。
13歳で徳川家光の小姓として江戸城に勤めたが
一説によると、20歳のとき
剣術の稽古で家光を容赦なく打ち据えたために怒りを買い
謹慎を命じられた。

それから12年後、
32歳の十兵衛は書院番として再び江戸城に勤務するが
それまで何をしていたのか、
本人の言い分と記録に矛盾もあり、謎が多い。

慶安3年3月21日。
すでにお城勤めを退職して柳生に引退していた43歳の十兵衛は
鷹狩りに出かけた先で原因不明の死を遂げる。
検死をしても村人を尋問しても死因は明らかにならず、
死んだ場所も記録によって違う。

柳生藩二代目藩主 柳生十兵衛三巌は
そのとき本当に死んだのだろうか。

十兵衛の命日は慶安3年3月21日、
西暦になおすと1650年4月21日ということになっている。

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厚焼玉子 18年4月21日放送

180421-05

春の死 藤原保則

出羽国の蝦夷が反乱を起こしたのは元慶2年3月15日、
西暦878年の4月21日のことだった。
干ばつ、飢饉、厳しい取り立てが重なったのが原因と思われる。

この地方を治めていた官僚はすでに逃げ
朝廷が派遣した軍隊も大敗を喫した。

このとき、討伐の命を受けたのが藤原保則だった。
保則は軍を指揮したことはなかったが
どこへ行っても領民に慕われるという評判があった。

出和国へ到着した保則は
軍事的措置を講じる一方で反乱軍にも食料を与え、
降伏したものについてはこれを許した。
討伐ではなく、良い政治をすることで融和をはかったのだ。

藤原保則は寛平(かんぴょう)7年4月21日、
死に臨んで比叡山に入り、
念仏を唱えながら往生したといわれる。

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森由里佳 18年4月15日放送

180415-01

壁を越える マイクの壁、自分という壁

♪This is me

ミュージカル映画“the Greatest Showman”で
顔中を髭で覆われた女性レティを演じ、
一躍注目の的になった女優キアラ・セトル。
彼女の歌う“This is me”は作品を象徴する名曲だ。

練習中、生の声で勝負することを怖がり
マイクから離れられないキアラに、
監督は言い続けたという。

“堂々とありのままでいようという歌なんだから、
 マイクの一歩前に出ておいで”

すると、どうだ。

スタジオの空気が変わった。
キアラが変えた。
自由に放たれた彼女の歌声が、
メンバーの歌にさえ力を与えたのだ。

メンバー全員で最後の一音を歌いあげたその瞬間、
スタジオのまん中には、紛れもなくありのままの
キアラ・セトルがそこにいた。

“This is me!”

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佐藤日登美 18年4月15日放送

180415-02

壁を越える 人生を変えた壁

旧東ドイツに住む物理学者の女性は、
木曜日をサウナの日と決めていた。
その木曜もサウナに行き、友人とビールを楽しんだあとバーを出ると、
街を分断する壁がたたき割られていた。

1989年11月9日、木曜日。
歴史的な一日となった、ベルリンの壁崩壊の日だった。

市民の手で壊されていく壁。
歓喜に湧き立つ人々。
「今こそ物事を変えることができる、何かをすることができる」と
彼女は思った。

その直感に従い、彼女は勤めていた科学アカデミーをやめ、
政治の世界へと進んだ。
そして、ドイツ初の女性首相となった。
彼女の名前は、アンゲラ・メルケル。

壁の崩壊が、ドイツの未来を築いた。

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佐藤日登美 18年4月15日放送

180415-03
Gary Goodenough
壁を越える 「国境の壁」を越える

言葉の壁。
人種の壁。
性別の壁。

さまざまな「壁」に打ち勝とうとするいま。
「生物の壁」を越えた愛を描いた映画が、今年のアカデミー賞に輝いた。
『シェイプ・オブ・ウォーター』。
声が出せない女性と半魚人の恋の物語。

監督のギレルモ・デル・トロの授賞式のスピーチは、
「私は移民です。多くのみなさんのように」という言葉から始まった。

 25年間、自分の国・メキシコにいました。
 自分の一部はそこにあり、一部はヨーロッパに、一部は他の国にあります。
 この業界は、そういった国境を越えて仕事すべきだと思うのです。

国境に壁をつくろうとしている大統領に向けられた言葉だ、という人もいる。

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佐藤日登美 18年4月15日放送

180415-04

壁を越える 秋元康の壁

壁に直面したら、たいていの人はそこで立ち止まって
うんうん悩んでしまう。

でも、作詞家・秋元康は違う。

 小説の執筆に行き詰まったとしたら、
 その小説は放り投げて、新しいものを書き始める。
 あるいは、全然違う仕事にとりかかる。

そうやって、秋元康は立ちはだかる壁を越えるのではなく、迂回してきた。
彼はこう言う。

 逃げてもいいんですよ。
 そのときに、人生において大事なのは「戻ってくる力」なのです。

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