2018 年 8 月 のアーカイブ

森由里佳 18年8月19日放送

180819-08

夏祭り ゆかたの知恵

夏祭り。
その非日常感を演出するのは、
祭り囃子に出店、ちょうちん、そして人びとの浴衣姿だ。

今ではさまざまな色や柄を楽しめる浴衣だが、
むかしながらの浴衣には、藍染めのものが多い。

その理由は、色の美しさだけではない。
藍という染料が持つ香りにある。

実はそれは、虫たちが苦手とする香り。
そこに目を付けた人々は、
夕方をすぎると、藍地の浴衣を好んで着たという。

機能だけでなく、美しさも持ち合わせるのが日本の知恵のいいところ。
今年の夏祭りには、藍染めの浴衣で出かけてみませんか。

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佐藤理人 18年8月18日放送

180818-01
Raico Rosenberg.com
海のむこう 「暗黒の海」

大西洋が荒れ狂うアフリカ西海岸ボハドル岬。
海水が間欠泉のように吹き上げる凄まじさに、
かつてそこから先は

 亡霊や怪物が棲む暗黒の海

と恐れられていた。

14世紀、ポルトガルの船乗りジル・ヤネシュが、
真偽の程を確かめてみることにした。

暗黒の海の向こうで目にしたもの。
それは鰯の群れが水中にひらめく銀の海と、
平和そのもののような海岸線だけだった。

彼は王様に献上するために、
砂浜に咲く美しい花を一輪積んで帰った。

その花は今日、

 ローズマリー

と呼ばれている。

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佐藤理人 18年8月18日放送

180818-02

海のむこう 「イギリスを見つけた男」

紀元前300年頃ギリシャの探検家ビュテアスは、
著書「大洋」の中でイギリスについてこう述べた。

 イギリス人はまれに見るほど親切で礼儀正しく
 現代人のようにずるいところがない

 ワインは飲まず大麦から作った発酵酒を飲む
 彼らはこの酒をクルミと読んでいる

ビュテアスはイギリスのさらに北にある
アイスランドやノルウェーにまで行き、
流氷や白夜の存在を克明に記した。

しかし地中海の温かさしか知らない当時のギリシャ人たちは、
彼の話をでっち上げだとまるで信じなかった。

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佐藤理人 18年8月18日放送

180818-03

海のむこう 「新大陸」

1492年、新大陸を発見したコロンブスは、
スペインに莫大な富をもたらし英雄になった。

しかし彼は発見した国の統治権と財宝の10%を要求。
図々しさと傲慢さをイザベラ女王に嫌われ、失脚。
1506年5月20日、世間にも忘れ去られ、
関節炎に苦しみながら、失意と落胆のうちにこの世を去った。

1年後、彼が発見した大陸は友人のイタリア商人、
アメリゴ・ベスプッチの名をとって

 アメリカ

と名付けられた。

コロンブスは死ぬまで自分が発見したのは
アジア大陸東岸沖の島々だと固く信じていた。

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佐藤理人 18年8月18日放送

180818-04

海のむこう 「フビライとマルコ」

1275年、中国に着いたマルコ・ポーロは、
その壮麗さに強く魅せられた。

皇帝フビライ・ハンもこの20歳の若者を気に入り、
象に乗って狩りに行ったり、
豪華な宮殿へ自由に出入りすることを許した。

金色に輝く彫刻や家臣たちの優雅な生活など、
皇帝に仕えた17年間で目にした驚くべき光景を、
彼は片っ端からノートに書き留めた。

25年ぶりに故郷ベネチアに帰った3年後。
ジェノバとの戦争で捕虜になると、
彼は囚人仲間に記憶を元に思い出話を書き取らせた。

それがアジアについて書かれた初の旅行記、

 東方見聞録

1324年、息を引き取る床で彼は言った。

 わたしはまだ見たことの半分しか話していない

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佐藤理人 18年8月18日放送

180818-05

海のむこう 「漂流実験」

人間はどのくらい長く漂流できるのか。
自分の肉体を使って実験した男がいた。

1953年10月19日、フランスの医者アラン・ボンバールは、
食料も水ももたずゴムボートで大西洋に漕ぎ出した。

彼は毎日0.7Lの海水に魚から搾り取った水を加えて飲んだ。
さらに壊血病にならないようプランクトンでビタミンを補給した。

出発から65日後のクリスマスイブ。
5000km以上の旅の果てに彼は西インド諸島のバルバドスに到着。
体重は25kgも減ったが、極めて健康だった。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-01

おやつの時間 〜紅茶はいかが?〜

イギリスで最初に紅茶が販売された1657年。
それはまだ”万病に効く東洋の秘薬”としてであった。

しかし、その5年後
チャールズ2世のもとに嫁いできたポルトガルの王女キャサリンが
中国の茶と
当時は貴重だった砂糖を大量に持参し、
宮廷に喫茶の習慣をもたらした。

貴重なお茶に、貴重な砂糖。
この贅沢な習慣は、次第にイギリスの貴族社会に広まっていった。

17世紀後半から19世紀にかけて、
イギリス東インド会社はお茶の輸入を独占し、
その取引の利益こそが
イギリス繁栄の基礎を築いたとまで言われている。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-02

おやつの時間 〜贅沢の極み〜

17世紀の中頃。
当時、イギリスの貴族や文化人たちの社交場コーヒーハウスで
はじめて紅茶が商品として提供された。

コーヒーハウスでは、
コーヒーや紅茶、チョコレートなど高価な舶来品を
楽しむことができたという。

次第に、コーヒーハウスは大衆化していき、
一般人も通うようになった。
やがて、紅茶は各家庭でも楽しまれるようになり、
食料品店でも販売され、市場は拡大していった。

紅茶と砂糖を合わせて飲む「贅沢の極み」は
イギリス経済に大きな影響を及ぼしたと言えるのではないだろうか。

その後、世界に先駆けて産業革命を成功させると、
中産階級を中心に食生活にも大きな変化が生まれ、
紅茶はすっかり人々の生活の中に定着していく。

19世紀に入ってから、
イギリスが植民地のインドやスリランカでお茶の栽培に成功すると、
19世紀末には中国の紅茶をすっかり凌駕するようになった。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-03

おやつの時間 〜日本人の最初の一口〜

日本で最初に紅茶を飲んだとされているのは、
伊勢の船頭「大黒屋光太夫」だと言われている。

1782年、伊勢の白子港を出港し、
江戸を目指した光太夫の輸送船は、駿河湾沖で暴風雨に遭遇した。

船はロシアとアラスカの間にある島に漂着し、
先住民族たちに助けられた。
船に積まれた陶器や金銀の豪華さから、
身分ある富裕商人と誤解された光太夫は賓客として扱われた。

ロシアの皇帝エカテリーナ2世は、
なんども宮中に招待し、その度に茶会を行なったと言われている。
当時のロシアでの茶の価値は、
「百匁にて銀一枚より五枚に至る」と言われるほどの高価なものであった。

帰国後の回顧談には、
「銀の壷にのみぐちをつけたる器に入れ、熱湯をさし泡茶(だしちゃ)にして飲む。
是にも多く砂糖、牛乳を加ゆるなり」と記されている。

やがて、日本に帰国することになった光太夫は、
金のメダルや金時計とともに
たくさんの茶と砂糖などの餞別をもらった。

旅の途中も、光太夫は、茶を嗜んでいたんだとか。

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河田紗弥 18年8月12日放送

180812-04

おやつの時間 〜ハイカラのシンボル〜

横浜や神戸の貿易港に、
イギリスやアメリカなどの商館が軒を連ねる頃のこと。

日本国内では、飲み慣れた緑茶への志向が強く、
高価な贅沢品の紅茶を飲むという習慣はしばらく根付くことはなかった。

しかし、そんな日本を変えたのが、文学だ。

夏目漱石や永井荷風、宮沢賢治らの日本文学の中に
紅茶が登場しはじめると、
次第に、広く国内で紅茶が飲まれるように。

文学の中に登場する紅茶好きの人々は、
決まってハイカラ好みの上流階級。

当時の文学の中では
優雅さや豊かさなど、ハイカラの記号として機能していたようだ。

この高級で優雅という紅茶へのイメージは
簡単に手に入るようになった今もなお、
残っているのではないだろうか。

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