五島のはなし(34)
昨日、世界陸上男子マラソンで
6位に入賞した佐藤敦之(さとうあつし)選手。
北京五輪では最下位の76位で、
まさに「どん底」を味わって臨んだ大会でした。
40キロを過ぎての激走で2人を抜き、
ゴールを駆け抜けたとき
天を仰ぎ大声で何度も叫んでいました。
直後のインタビュー。
「もう陸上をやめようと思ったけれど、ある人から、
どん底からはい上がるのが会津の人間だ、と言われて・・・」
感動的でした。
と同時に「どん底からはい上がるのが会津の人間だ」にしっくりくるのは
「会津」だからだよなあとも考えました。
もし僕がどん底を味わっていて、五島の人間から、
「どん底からはい上がるのが五島の人間だ」と言われたら
思わず顔を上げて、「ほんと~?」とつっこみたくなります。
どん底の五島人に、他の五島人が、どんな郷土魂を根拠にして励ますか。
考えてみたのですが、そもそもそんな郷土魂が希薄な気がします。
あえて言うなら、
「どん底っちいうたっち、生きていかんばしょんなかろーもん」
(どん底だろうがなんだろうが、生きていくしかしょうがないでしょ)
かなあ。
わかるような気がするな〜。
会津は騙し討ちに遭ったみたいなやりかたで朝敵にされましたもんね〜。
そりゃあ根性もすわるでしょうね〜〜〜〜。
昔から「〇〇人気質」を不思議に思っていて、
例えば後世の会津の人にとって、会津の歴史は
実体験ではないですよね?でも、培われた歴史というか
物語を個人個人が身にまとい、いつしか「本当」の気質になっていくわけでしょう?
佐藤選手も「本当」と思えたから、腑に落ちたんだと思うんですよね。
そういう、ある種の気質につながる物語が五島にもある気がするんですけど
なんなんだろうなあ。忘れられた感じ、かな。
・・・忘れられた五島人(宮本常一を拝借)。
キリシタン史からみると、禁止令でいっぺん弾圧され滅亡したものの
18世紀末に移住してきた人々のほとんどがキリシタンだったので
またキリシタン復活。
そうかと思ったら明治になり、
明治は神道バリバリで仏教まで弾圧されたくらいだから
当然キリシタンも弾圧….というえらいことになっていますが。
隠れキリシタンの方たちの歴史は
隠された歴史なのでごく一部の人にしか
受け継がれていないし、
メインストリーム(という言葉の使い方は本当はおかしいですが)の
クリスチャンに戻った人たちのことも多くは語られていないですね。
遠藤周作の「沈黙」はとてもよく書かれていますが、
実際の島の人はそういう物語を生み出すことに
気恥ずかしさというか、遠慮を感じてきたように思います。
それこそ「隠れ」の精神なのかもしれないけれど。
私の田舎も維新のときにちょいとした騒動があったんですが
まったく郷土史に残っていないです。