五島のはなし(45)
最近気になってしょうがないんですが、
これから、昔をどれくらい「昔」として語れるだろう、
と思うんです。
訳がわからない言い方ですが、つまり、
僕が子どものころ、親から
「昔は何も食べ物がなかった」とか
「小さい頃から川に水汲みに行っていた」みたいな
昔の(そして苦労した)話を聞かされるたびに
「昔って(ほんの数十年前なのに)昔だったんだなあ」と
感じたものでした。
前回、「昔はよく河童と相撲をとったもんだ」という
話を聞いたことがあると書いたけれど、
それにしたって、もし仮に河童の存在はウソだとしても
河童という言葉が出ること自体、昔だったんだなあ、と感じます。
僕が子どもたちに、昔は・・・と言うとしたら何だろう?
と考えると、
「昔はなあ、ネットとかケータイとか、なかったんだぞ」とか
「昔はウォシュレットもなくて苦労したもんだ
みたいなことかなあ。
なんか、へぇ~!って感じがしないです。
よく、「今は時代の移り変わるスピードが速い」なんて言う人いますが、
ほんとかなあ、と思ってしまいます。
僕が生まれたときには電話もテレビも水道も
冷蔵庫も便器も車もあって、
当たり前だけど地球はすでに丸くて、
アメリカ大陸も見つかっていて、月にも行っていて、
いくら今の変化が速いと言っても、
何か劇的に「ない→ある」という変化じゃないような気がしてしまいます。
以上、今日のうだうだ、終わりです。
エネルギーという視点で見ると
江戸時代も昭和の初期も変わらなかったそうですよ。
太陽エネルギーを循環させていた時代と
化石エネルギーを大量消費するようになった時代に
別れるそうです。
(太陽エネルギーというのは、大雑把にいうと木ですね。薪や炭です。)
つまり、江戸も昭和もたいして変わらなかったけど
化石エネルギーになってから大きく変化したってことでしょうか。
なるほど。
その視点はわかりやすいなあ。
私の祖父さんの頃まではタヌキが化かしていたそうです。
昔って祖父さんの頃なのか?
意外と昔って近いのかも。
「カッパがいた」「タヌキが化かしていた」
みたいなことは、もう言われなくなるんでしょうか。
それに変わる昔話ってどんなことなんだろうかと
気になるんですよね。もしかしたら自然が残っている
ところではそういう話も受け継がれるかも知れない。
最近、宮本常一を読んでいて、その辺のことが気になってます。
カッパやタヌキのかわりに
学校の怪談みたいなことになるのかもしれないですね。
あと、中央と地方の時差というのもあって
私が小学校の頃はもうタヌキやカッパや火の玉は滅びていましたが
しかし、祖母の実家のある××郡のみかん山では
当時高校生の又従姉妹が学校帰りに火の玉を見たと言ってましたね。
同じ県内でも県庁所在地の町と山の中だと時差があるんですね。