八木田杏子 09年10月24日放送
「ココ・シャネル」
シャネルの創始者ガブリエル・シャネルは、
お針子をしながら歌手になることを夢みて
キャバレーで歌っていた。
舞台に立っていたときの持ち歌は
「Ko Ko Ri Ko」
それから
「Qui qu’ a vu coco」
そのタイトルにちなんで、ファンは
「ココ!!」と呼んで声援を送った。
歌うことを諦めたあとも、ガブリエルはずっと、
その呼びかけを愛した。
自分の足で立とうとしたときに
拍手と一緒にもらった名前「ココ」
シャネルはそれを一生使いつづけた。
「シャネル・スタイル」
孤児院で育ったココ・シャネルが
社会へ一歩踏み出したとき
最初に首をかしげたのは
ドレスの長い裾、フリルやリボンなどの過剰な装飾。
本当に必要なのは
着飾るための服ではなく
生活するための服ではないかしら。
そう信じたシャネルは、
当時、下着の素材だったジャージーを使って
大胆なドレスを発表する。
そのドレスは
女性のカラダを動きやすく解放した。
そのドレスには短い髪とシンプルな帽子が似合った。
シャネルのファッションは
女性の生きかたに影響を与えはじめる。
「シャネルの解放」
どんなに苦しい時代でも、
女はファッションを諦められない。
戦争がはじまって戸惑う女性を、
シャネルは、ファッションでリードする。
身分のある女性が、負傷兵の看護をするために
品のいい看護服を仕立てあげた。
ドレスの紐をしめるメイドがいなくなったから、
コルセットのいらないドレスをつくった。
自動車や馬車ではなく、自分の足で歩くために、
踵を隠していたスカートも短くした。
誰の手も借りずに服を着て、
颯爽と街を歩くようになったパリジェンヌ。
第一次世界大戦が終わると、
その姿は世界中に知れ渡る。
「シャネルの恋」
打算のない恋をするためには、
女は自立しなくてはならない。
ココ・シャネルは、そう信じていた。
恋人の援助で仕事をしていることが、もどかしかった。
「僕をほんとうに愛している?」と彼に聞かれると、
シャネルはこう答えた。
それは私が独立できたときに答える。
あなたの援助が必要でなくなったとき、
私があなたを愛しているかどうかわかると思うから。
恋人と肩をならべて歩くために、
シャネルは仕事に生きる女になる。
彼がほかの女性と結婚したあとも
再び彼女のもとへもどってきたときも
そして、彼がシャネルを残して亡くなってからも…
仕事に支えられたシャネルは、
彼を愛しつづける。
「シャネルの恋のおわり」
シャネルは女友達にこんなアドバイスをしている。
愛の物語が幕を閉じたときは、
そっと爪先だって抜け出すこと。
相手の男の重荷になるべきではない。
終わりかけた愛情を、友情に変えるために。
シャネルは、きっぱりと言い切る。
男とはノンと言ってから本当の友達になれるもの。
もしかしたら
彼女は恋のいちばん美しい部分だけを
相手の記憶にとどめたかったのかもしれない。
シャネルのように恋を終わらせるのは度胸が必要だ。
もしかしたら、これが本当の意味で
自分を捧げるということなのかもしれない。
「シャネルの親友」
ココ・シャネルの一生の親友は
パリの社交界の女王、ミシア・セールだった。
惹かれあいながらぶつかりあうふたりの関係を
シャネルは、こう語る。
わたしたちは二人とも他人の欠点しか
好きになれないという共通点をもっている。
口当たりがいいだけでは、
一生の友情はつくれない。
「シャネルのカムバック」
退屈しているときの私って、千年も歳をとってるわ。
ココ・シャネルは、仕事のない人生に飽きていた。
大きくなり過ぎた店は
第二次大戦の直前に閉めていた。
シャネル自身も引退したつもりだった。
それなのに
70歳の彼女は、また服を創りはじめた。
15年ぶりのコレクションは、酷評されたけれど
その1年後
酷評された服がアメリカで大ブームになった。
女性の社会的進出がめざましい国で
シャネルは再び受け入れられたのだ。
それから87歳までシャネルはブティックに立ち続け
こんな言葉を残した。
規格品の幸せを買うような人生を歩んではいけない。