佐藤延夫 10年05月01日放送


剣豪たち1/塚原卜伝(つかはらぼくでん)

秘剣「一の太刀」で
212人を手にかけたと言われる剣豪、塚原卜伝。

剣術は言うに及ばず、
心理戦も、また巧かった。

長い太刀を使う相手には、その欠点を説いて聞かせ、
片手突きを得意とする者には、
そんな見苦しい手はやめろと
門弟を遣わし、何度も申し入れた。

データ収集も忘れない。
相手が右太刀か左太刀か、癖は何かを
必ず調べさせてから勝負に臨んだという。

剣豪という域に達するには、
実力だけでなく、駆け引きも大切。

人生50年の戦国時代で
83歳まで生きるのだから、
塚原卜伝という男、
人生の術も心得ていたに違いない。


剣豪たち2/伊東一刀斎(いとういっとうさい)

戦国時代、一刀流を極めた剣豪、伊東一刀斎。

若かりし頃、
剣の師匠に向かって、こう言った。

   悟りとは、修業期間の長さではありません。
   一瞬のものです。

そうして三度立ち合い、三度とも師匠を打ち破る。
諸国修業の旅に出て、三十三戦負け知らず。

鬼夜叉の異名で恐れられた一刀斎、
生まれの地には諸説あり、
幼少期のエピソードはほとんど残されていない。

一説によると、94歳まで生きたという。
謎が多いほど、人は伝説に近づく。


剣豪たち3/松浦静山(まつうらせいざん)

肥前の国、第10代藩主だった松浦静山は、
剣術のひとつ、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の修業に心血を注いだ。

幼少から病弱だった静山、
剣術を始めたきっかけは、体質を改善するためだった。

心形刀流を極めたのちに
こう語っている。

  剣術を学ぶ者は、
  たとえその奥義に至らずとも
  養生のためにこれを修していくべきである。

静山は33人の子をもうけ、81歳まで生きている。
なるほど、剣術は滋養強壮に活かすこともできるのか。


剣豪たち4/男谷信友(おたにのぶとも)

斬るか斬られるかの世界にも、
“いい人”はいるものだ。

直心影流(じきしんかげりゅう)の剣豪、男谷信友。

性格は極めて温厚。
声を荒げることなど一度もなかったこの男、
三本勝負の他流試合では、
必ず一本、相手に勝ちを譲った。
それはもちろん、残りの二本は必ず取れるという腕前があったから。

ひとたび本気を出すと、
竹刀が生き物のように動き
相手を身震いさせたという逸話も残っている。

趣味は読書と絵画。
暇があると筆をとり
仲間や弟子に贈っていたそうだ。

本当に強い人、というのは
驚くほど柔らかな生き方をしている。

その後、江戸幕府の要職に招かれたのも
頷ける話だ。


剣豪たち5/浅利又七郎(あさりまたしちろう)

江戸時代、明眼(みょうがん)の達人と言われた剣豪、浅利又七郎。

試合になると、
相手に隙が見えても突くことをしない。
そして「私が勝ちました」と言い放つ。
相手が納得しないと
たちまち強烈な突きを繰り出し倒したという。

晩年、一度倒した剣豪、山岡鉄舟が
再び試合を申し込んだとき、
その構えを一瞥して竹刀を引いた。

  あなたの剣は極到に達せられた。
  もはや私の遠く及ばぬところです。

違いの分かる男とは、彼のことを言う。


剣豪たち6/山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)

幕末の剣豪、山岡鉄舟は、
苦悩の中で悟りを得た。

  剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ
  真の剣の達人である。

それが、刀を持たない「無刀の真理」だった。

無刀流の極意とは、
春風を斬るようなものだという。

5月の春風に手を伸ばしてみよう。
何か悟りを得るかもしれない。


剣豪たち7/千葉周作(ちばしゅうさく)

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の開祖、千葉周作は
道場の運営に成功した剣豪だ。

武者修行から戻り
日本橋に道場を建てた途端、
多くの門弟とスポンサーが集まった。
三年後には神田の一等地に道場を移し、
近くにあった塾を買収。
敷地を広げた揚げ句、
客人たちの宿舎まで設け、
江戸一番の道場にしてしまった。

  気は早く 心は静か 身は軽く
  目は明らかに 業は激しく

このわかりやすい指導法も評判だった。

晩年まで剣の腕前も一流だった千葉周作。
その経営手腕も、また一流。

今の厳しい世の中でも、きっと生きていけるだろう。

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