蛭田瑞穂 10年07月04日放送
7月4日にちなんで① フェレンツ・プスカシュ
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
ハンガリー代表チームのキャプテンは、
今なおハンガリー史上最高の選手として語り継がれる
フェレンツ・プスカシュ。
18歳で代表にデビューしたプスカシュは、
29歳で代表を退くまで84試合に出場し、
83ものゴールを決めた。
1度ボールを蹴っただけで2点を奪う。
とチームメイトが賞賛するほど
圧倒的な決定力だった。
スイス大会の決勝戦。
前半の6分にハンガリーの先制ゴールを挙げたのも
やはりプスカシュだった。
7月4日にちなんで② シュベシェ・グスターヴ
「マジック・マジャール」。
1950年代の始めに、世界を席巻した
サッカーハンガリー代表チームを、人々はそう呼んだ。
「魔法のハンガリー人」という意味である。
1950年からの4年間で32戦無敗。
ヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得し、
サッカーの母国イングランドを
聖地ウェンブリーで破るという快挙も遂げた。
マジック・マジャールの強さの秘密。
そのひとつが監督シュベシェ・グスターヴの
構築したサッカーシステム。
試合中に選手が臨機応変にポジションを変える、
当時としては画期的なシステムだった。
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
シュベシェ率いるハンガリーは
前半わずか8分で2点を奪い、その強さを見せつけた。
7月4日にちなんで③ ゼップ・ヘルベルガー
1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。
両チームはその2週間前にも
予選リーグで顔を合わせていた。
結果は8対3でハンガリーの圧勝。
西ドイツの監督、ゼップ・ヘルベルガーは、
マスコミから「国家の裏切り者」という汚名を着せられた。
しかし、この負けは彼の計算だった。
ハンガリーに敗れて予選を2位で通過すれば、
強豪国との対戦が少ない組み合わせで
決勝トーナメントを戦うことができる。
先の勝負を読んだヘルベルガーは
ハンガリー戦であえて主力選手を温存して戦った。
一方、西ドイツに勝利し、
予選を1位で通過したハンガリーは
ブラジルなど強豪国との死闘を勝ち抜いて
決勝戦まで進んだものの、
主力選手は満身創痍の状態だった。
そして決勝戦。
前半の8分に2点目を奪われた西ドイツは
2分後に1点を返す。
それは西ドイツが上げた反撃の狼煙だった。
7月4日にちなんで④ 西ドイツ代表チーム
それは「ゲルマン魂」を
初めて世界に見せつけた試合だった。
1954年7月4日、スイスのベルンで行なわれた
ワールドカップ決勝戦、ハンガリー対西ドイツ。
当時「魔法のハンガリー人」と呼ばれ、
無敵の強さを誇ったハンガリーを
西ドイツは3対2で下し、初優勝する。
2点差を覆す、見事な逆転劇だった。
その勝利はまだ第2次世界大戦敗戦の傷が癒えていない
西ドイツ国民に勇気と自信を与えた。
その後、敗戦からの奇跡的な復興を遂げ、
ワールドカップでも3度の優勝を果たしたドイツ。
1954年7月4日の勝利を人々は
「ベルンの奇跡」と呼び、今に語り継ぐ。
7月4日にちなんで⑤ アルフレッド・ディ・ステファノ
今も昔もサッカー好きが集まると口にする
「史上最高のサッカー選手は誰か?」という話題。
サッカーの王様ペレはこう答えている。
史上最高の選手はペレかマラドーナだと
みなさんは言うが、わたしにとって最高の選手は
アルフレッド・ディ・ステファノだ。
アルフレッド・ディ・ステファノ。
1943年、17歳でアルゼンチンの名門
リバープレートと契約した彼は、
すぐに頭角を現し、2度の得点王に輝く。
その後コロンビアリーグに籍を移し、得点王を2度獲得。
そして27歳でスペインのレアル・マドリードに移籍する。
彼の移籍を巡っては、
レアル・マドリードとバルセロナの間で
当時の最高権力者フランコ将軍が仲裁に乗り出すほど
熾烈な争奪戦が繰り広げられたという。
チームに在籍した11シーズンで
決めたゴールは466。8度のリーグ優勝、
そしてヨーロッパNo.1のクラブチームを決定する
チャンピオンズカップの5連覇という偉業も遂げた。
現在、レアル・マドリード名誉会長にして、
今なおチーム歴代最高の選手といわれる男、
アルフレッド・ディ・ステファノ。
彼は1926年の今日、ブエノスアイレスに生まれた。
7月4日にちなんで⑥ モード・ワトソン
テニスのウィンブルドン選手権には
白い衣服を着てプレーしなければならない
という決まりがある。
これは1844年、女子シングルス初代王者
モード・ワトソンが白い衣服で
プレーしたことに由来する。
白い帽子、白いブラウス、
そしてくるぶしまである白のロングスカート、
モード・ワトソンのテニスウェアは、
鮮やかな白でまとめられていた。
2010年のウィンブルドン選手権は
イギリス時間の今日7月4日、最終日を迎える。
ウィンブルドンの緑の芝が
ひときわ美しく感じられるのは、
名物の雨と、白いウェアのおかげかもしれない。
7月4日にちなんで⑦ シュテフィ・グラフ
1996年7月4日。
ウィンブルドンの女子シングルス準決勝、
シュテフィ・グラフ対伊達公子。
2セット目の第7ゲーム。
グラフがサーブの態勢に入ると、
突然、観客のひとりが大声で叫んだ。
「シュテフィ、僕と結婚して!」
笑い声に包まれる場内。
緊張の糸が切れてもおかしくない状況に、
しかし彼女はこう応えた。
あなたお金は持ってるの?
野次に動揺するどころか、
ユーモアで切り返したシュテフィ・グラフ。
あまりに見事なリターンエースだった。
7月4日にちなんで⑧ スザンヌ・ランラン
「テニスの女神」スザンヌ・ランラン。
1920年代にウィンブルドンを5連覇し、
全仏選手権も6度制覇した伝説の選手。
彼女の偉業はそれだけではない。
その時代、テニスは社交のための優雅な遊び。
女性は長いスカートを穿いてプレーしていた。
しかし、ランランはそんな恰好では動きにくいと、
スカートを膝の高さで切ってしまった。
それ以降、女性のテニスウェアは短いスカートが主流となり、
テニスの競技性が一気に増したといわれている。
今日7月4日は、スザンヌ・ランランが
39歳で亡くなった日。
短い生涯で彼女が残した功績はあまりに大きい。
現在、全仏オープンテニスの
女子シングルス優勝者に贈られるカップには
スザンヌ・ランランの名前が刻まれている。