小山佳奈 11年01月16日放送
「今日、ママンが死んだ。」
有名な一節から始まるカミュの「異邦人」は
あるひとつの友情から生まれた。
カミュの友人、パスカル・ピア。
彼はこの原稿を一目でほれこみ
ありとあらゆる伝手を使って
出版社に売り込んだ。
フランスでダメなら
アメリカまで持っていった。
なぜこの無名な作家に
そこまで力を入れるのか。
ピアはこう答えた。
「僕は彼が大好きです」
その一言で、十分だった。
貧しい家庭に育ち
将来は親戚の肉屋を継ぐはずだった
作家、アルベール・カミュ。
彼のただならぬ文才を見いだしたのは
小学校のジェルマン先生だった。
彼はカミュに文学の素晴らしさを教え、
根気づよく家族を説得し続けた。
それから30数年後の
ノーベル文学賞の受賞式で
壇上に立ったカミュのスピーチ。
「受賞の知らせを聞いて私は
母のこと、それから、
ジェルマン先生のことを思いました。
いまでも私は先生に感謝する
小さな生徒です。」
私たちも先生に感謝しなければならない。
今こうしてカミュの作品を読むことができるのだから。
読み聞かせ、
という言葉がもてはやされているけれど。
20世紀初頭のアルジェリアの
貧しい家庭に生まれた少年には
読んでもらう本もなかった。
戦後史上最年少でノーベル賞を受賞した、
アルベール・カミュ。
彼の母は文字も読めず耳も聞こえない。
父は一歳のときに戦死していない。
身の周りには生活するのに最低限のものしかなく
本棚なんて学校に入るまで見たことがなかった。
それでもカミュは
作家になろうとし、成功をつかんだ。
「意志もまたひとつの孤独である」
カミュのこの言葉に漂う悲しみは
彼の描く人間の悲しみでもある。
作家、アルベール・カミュは、
おそらく文学史上もっとも
自信のない作家だった。
44歳という若さでノーベル賞を取りながら
死ぬまで自分の才能に自信が持てなかったカミュ。
俳優に転向しようと考えたり、
スター女優を愛人にして
なんとか箔をつけようとしたり。
「もう書けなくなりました」と
友人に泣きながら手紙を送ったり。
「書けなければ、私はせいぜい面白い傍観者だったにすぎない。
書ければ、私は本当のクリエーターだったということだ。」
彼ほどの作家が自信を持てないとしたら
わたしたちはどうすればいいんだろう。
作家、アルベール・カミュ。
彼はとにかく苦労人だ。
家が貧しかった彼は、
働きながら小説を書き続けた。
その職業も多岐にわたる。
自動車部品のセールスマンから
船舶仲買人、公務員、はては測候所員まで。
あるときの勤め先は、新聞社だった。
新聞社といっても
彼の担当は、割付けや校正といった
いわゆる技術職。
最後までその文才を職場の人に
見せることはなかった。
それから数年のち、
「異邦人」でカミュの名前が世間に知れ渡ったとき、
新聞社の人たちはみな腰を抜かした。
「あの影の薄い校正係が。」
人を驚かせることが
小説のあるひとつの役割だとしたら
カミュはまさにしてやったりだったろう。
不条理をテーマにした「異邦人」で
戦後最年少でノーベル賞をとった
アルベール・カミュ。
彼はどんなにか才能はあったかもしれないが、
女性の眼から見ると問題は多い。
愛人が何人もいるのは当たり前。
ずっと好きだったフランシーヌが、
ようやくプロポーズを受けてくれたそばから
結婚なんて人生の終わりだと別の女性に泣きつく。
口癖は「君なしでは生きていけない」。
わかってはいるのに
好きにならずにいられない。
彼の気持ちは
彼の小説以上に
不条理だ。
いまから51年前の1月。
作家、カミュは、
あっけなく死んだ。
友人が運転するクーペが
130キロで走行中にタイヤがパンクして
道路脇のプラタナスに激突。
助手席にいたと思われるカミュは即死だった。
死期を悟っていたのだろうか、
亡くなる直前
字の読めない母親に
手紙を送っている。
「あなたがその心と同じように
若く、美しくありますように。」
読めない手紙を
母親は死ぬまで
大切に持ち続けた。
作家、アルベール・カミュが亡くなって
50年後の2009年。
フランスのサルコジ大統領が
カミュのお墓をパリのパンテオンに
移すと言い出した。
パンテオンといえば
国家の英雄が眠る場所。
これに、フランス国民は激怒。
死ぬまで反体制を貫いたカミュを
政府の人気取りのために利用するなんて。
国中が感情的になる中
スピーケルという一人の研究者が
こう言った。
「私が口をはさめることではありません。
けれども彼ならば
冷たい大理石よりも
あたたかな日差しに包まれた
故郷のラベンダー畑を好むでしょう。」
そしてカミュは無事
故郷のルールマランに
眠りつづけている。