春の死 藤原保則
出羽国の蝦夷が反乱を起こしたのは元慶2年3月15日、
西暦878年の4月21日のことだった。
干ばつ、飢饉、厳しい取り立てが重なったのが原因と思われる。
この地方を治めていた官僚はすでに逃げ
朝廷が派遣した軍隊も大敗を喫した。
このとき、討伐の命を受けたのが藤原保則だった。
保則は軍を指揮したことはなかったが
どこへ行っても領民に慕われるという評判があった。
出和国へ到着した保則は
軍事的措置を講じる一方で反乱軍にも食料を与え、
降伏したものについてはこれを許した。
討伐ではなく、良い政治をすることで融和をはかったのだ。
藤原保則は寛平(かんぴょう)7年4月21日、
死に臨んで比叡山に入り、
念仏を唱えながら往生したといわれる。