厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

厚焼玉子 17年5月27日放送

170527-04

風と舟 冒険好きなキャラベル船

15世紀の海洋王国スペインとポルトガルで愛された船、
キャラベル船。
その三角帆は風を自由につかんで小まわりがきき、
浅瀬でも座礁することなく素早く動けたので
未知の世界へ乗り出す探検家に人気だった。

1492年、大西洋に乗り出したコロンブスは
最初はサンタマリア号に乗船していたが、
鈍重なキャラック船のサンタマリア号は
お付きのキャラベル船に置いて行かれることがしばしばあって
コロンブスの不興をかっていたらしい。
やがてサンタマリア号はカリブ海のイスパニョーラ島で座礁。
コロンブスは喜んでキャラベル船のニーニョ号に乗り換え、
ニーニョ号でヨーロッパに帰還した。

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厚焼玉子 17年5月27日放送

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風と舟 ドレイクとガレオン船

マゼランが世界一周の航海の途中で亡くなっておよそ50年後、
キャプテンドレイクのガレオン船ゴールデンハインド号が
イングランドのプリマスから出港した。

ゴールデンハインド号は300トン。
吃水の浅いスマートな船で安定性に欠けるものの
風を受けて走る速度は速かった。

ドレイクとゴールデンハインド号は
大西洋からマゼラン海峡を抜けて太平洋に進出。
スペインの船や植民地を襲っては財宝を略奪しながら
航海をつづけた。
東南アジアではちゃっかりとスパイスも仕入れ、
アフリカの喜望峰をまわって
生きて世界一周を果たした最初の人になった。

世界一周の味方は地球規模で吹くふたつの風、
貿易風と偏西風だった。

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厚焼玉子 17年5月13日放送

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TANAKA Juuyoh
5月の花 ゲンノショウコ

江戸時代から副作用のない民間薬として
親しまれてきたゲンノショウコは夏の花だが
5月の季語にその名を連ねている。
旧暦の5月はすでに夏だったのだ。

ゲンノショウコの学名、ゲラニウム・ツンベルギーは
江戸の末期に日本を訪れたスエーデンの植物学者
カール・ツンベルクの名前をいただいている。
ツンベルクは将軍に拝謁するために
長崎の出島から江戸への旅をし、
その道中で800種類を超える植物を採集して標本にした。

ツンベルクは日本の植物を研究した初めての西洋人だった。
日本の植物は、このときはじめて
近代分類学と出会ったのだった。

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厚焼玉子 17年5月13日放送

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5月の花 ウコギ

ウコギはウドやタラの芽と同じウコギ科の落葉樹。

江戸中期、
極端な財政難に陥った米沢藩を立て直した名君、上杉鷹山は
武家屋敷の生垣にウコギを奨励した。
ウコギは幹に棘があるために防犯に適しているが、
何よりもその葉が食べられるのがありがたかった。
当時、貧乏のどん底にいた人々は
春から夏にかけて、次々と伸びてくるウコギの若葉を食べ、
茹でたものを干して保存しては窮乏に備えた。

米沢の武家屋敷では今でもウコギの生垣が残り、
初夏には白い花を咲かせる。

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厚焼玉子 17年5月13日放送

170513-03
663highland
5月の花 牡丹

花の王さまといわれる牡丹。
島根県の宍道湖(中海)に浮かぶ大根島は日本一の牡丹の産地。
昭和の半ば頃は、島の女が背負い籠に苗木や鉢植えを入れて
行商に歩いた。

ひと月も家を空けるのは当たり前、
ときには半年も帰れない。
そんな様子を目にして逆転の発想をしたのが門脇由蔵(よしぞう)だった。
売り歩くのではなく、来てもらえるようにすればいい。

牡丹で観光客を呼ぶという由蔵の夢は、
息子の栄(さかえ)の手によって実現する。
昭和50年、一年を通して花が楽しめる牡丹の庭、
由志園(ゆうしえん)が完成。
今では年間30万人の観光客が訪れている。

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厚焼玉子 17年5月13日放送

170513-04
the justified sinner
5月の花 マロニエ

マロニエの花は5月に咲く。
マロニエは5月の季語でもある。

「アンネの日記」を書いたアンネ・フランクは
ナチスに追われて一家で避難したアムステルダムの隠れ家の窓から
一本のマロニエの木を見つめていた。
毎日息をひそめ、外へも出られない生活のなかで
マロニエは季節の変化を教えてくれる大事な友だちだった。

マロニエはやがて
アンネ・フランクの木と呼ばれるようになった。

2010年、年老いて半ば立ち枯れていたマロニエは
強風で倒れてしまった。
けれども、その苗木は世界各地に送られ、
平和の象徴として大事に育てられている。

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厚焼玉子 17年5月13日放送

170513-05
nekonomania
5月の花 ひなげし

ひなげし。
別名を虞美人草。

明治40年の5月だった。
夏目漱石は上野から浅草を散歩した帰り道、
名前を知らない鉢植えの花に目を留めた。
植木屋に尋ねると虞美人草だという。
漱石はふた鉢を買い求めた。

花の重さに細い茎が撓む様子も
花びらの縮れ具合も
なまめかしく美しいと漱石は思った。

漱石の初めての新聞小説「虞美人草」の連載が始まったのは
それから一ヶ月後のことである。

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厚焼玉子 17年4月15日放送

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遺言の日 ノーベル

 全財産はつぎの通り処理すること


 遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、
 毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、
 その利子を賞金の形で与える。

 (利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、
 化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、
 生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、
 文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、
 諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・
 または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、
 それぞれ一部を与えること。)

 右の賞は、候補者の国籍を問わず、
 最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である

 1895年11月27日 アルフレッド・ノーベル

この遺言のおかげでノーベル賞ができた。
4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-02

遺言の日 ナポレオン

1821年、ナポレオンは遺言の補足として
こんな言葉を残した。


 「わたしの遺体はセーヌ河畔に葬ってほしい。
  わたしが深く愛するフランス国民の中にありたいからである。」

これを書いた4月16日、
ナポレオンの健康状態は悪化する一方で、
わずかな食べ物も戻すようになっていた。
ナポレオンはそんな中でも
自分の遺言書が破棄されることを恐れ
用心深く数通の複製を作っていた。

2013年、パリの競売でこの遺言補足書が落札された。
35万7千ユーロ、日本円でおよそ4700万円だった。
ナポレオンは自分の遺言書の価値が
わかっていたのだろうか。

4月15日は遺言の日

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厚焼玉子 17年4月15日放送

170415-03

遺言の日 本居宣長

江戸の国文学者、本居宣長の遺言には
葬式と墓についての細かい指示がある。

 墓地7尺四方、真ん中を少し後へ寄せて塚を築くように。
 そのうえに桜の木を植えるように。
 塚の前には石碑を建てること。
 塚の高さは三四尺ばかり。
 芝を植え土を固くして崩れないようにする。
 のちのち、もし崩れているところがあれば、
 ときどき見回って直しておく。
 植える桜の種類は山桜の花のよいのを選んで植えてほしい。

本居宣長はその墓の設計図も残している。
そして墓についての指示の後には
墓参りについての指示が続くのである。

遺族の心境を伺ってみたい。

4月15日は遺言の日

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