厚焼玉子(事務局・中山佐知子)

梅男くん

黒くて長い毛の猫がときどき庭に来るので
黒毛長丸と呼んでいたところ、迷子札に「梅男」と書いてあった。
区民農園の向こうのアパートに住むOLの飼い猫というのも判明した。

飼い猫とわかれば餌はあげない。
飼い主が何を食べさせているかわからないからだ。
たとえばドライフードで飼っている猫に缶詰をあげて
うっかりそれが気に入ってしまうと飼い主が困るからだ。

ところが、梅男くんは盗み食いをする。
うちで世話をしている迷い猫ハエタローが残したひと口を
知らない間に食っている。
わあぁ、いかんいかん。
取り上げるとうらめしそうな顔で見上げている。
猫に怨まれるのはどうも居心地が悪い。

しかも梅男くんは窓の外に30分くらい平気で座り込む。
なかなかあきらめない。
猫はどうしてそんなに暇なのだろう(玉子)

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ベベンコビッチのユーストリーム

昨日は忙しい一日だった。
打ち合わせが終わってからベベンコビッチの五島物産展を
ちょいとのぞくつもりが身動きもできず
五島うどんも買えなかったし、五島の陶磁器を見ることもできなかった。

なにをやっていたかというと
Visionの執筆者に配るVisionのCDを焼いてCDジャケットをつくって
さらにTokyo Copywriters’ Streetの執筆者とナレーターに配るCDを焼いて
ジャケットをつくって
さらに、ここに掲載している原稿に貼付けるyoutubeの動画をつくって
アップして貼付けて…

と、まあこんな雑務なのだが
この雑務はきっちりやっておかないと本業の仕事に取りかかれない。
こんなことに追われて会社のメールも開かないまま
20時の約束に飛び出していって、終わったのが21時半。
途中電話をくれた人とそれから会って飯を食って
仕事はたいして忙しくもなく、手帳はそこそこ白いくせに
こんな気ぜわしい日があったりする。

そもそも昨日はハエタローのXデーのはずだった。
とっくにステロイドの持続期間は過ぎていて
日曜日から月曜にかけてかなり危険状態で
昨日は病院に連れて行かなくてはと思っていたのだが
朝になって奇跡的にご飯を食べはじめた。
小康状態というよりは極小康状態といえそうだけれど
ご飯を食べられるのならばステロイド注射は先に延ばした方がいい。
そんなわけでハエタローからもらった一日を雑務にあてて
ついでに五島物産展ものぞいてみようと欲張ったのだが
さすがに物産展はムリだった。

それにしてもベベンコビッチはどうしたかと
HPをのぞいてみたら
ライブをユーストリームで中継していたらしく
動画がアップされていたのでこちらに貼っておきます(玉子)

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黒猫は写真に撮りにくい

黒猫は写真に撮りにくい。
単なる黒いカタマリのような物体になってしまう。
正面を向いてじっとしていれば目鼻くらいはわかろうけれど
後向きや横向きだと茫洋としてとりとめがなく
ナメクジのようにも見えてくるから困る。

うちの黒猫は保護色を求めるのか
黒電話のそばで丸くなる癖がある。

それを称して「電話に化ける」と言うことにしている(玉子)

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厚焼玉子 10年10月30日放送


藤村の初恋

ふるさとの馬籠(まごめ)の家には
桑畑のところどころにリンゴの木が植えてあって
隣との境に高い塀があり
その塀の向こうに同い年の少女がいた。

島崎藤村は、少女とリンゴの木の下を歩いた。
裏のたんぼ道で鳥の声に耳をすました。
谷から流れてくるせせらぎでカジカを掬(すく)うこともあった。

人目のないところに隠れて
少女をそっと抱きしめた、島崎藤村八歳の初恋。

今日は初恋の日
島崎藤村の「初恋」の詩は、明治29年の今日
文学界に発表された。


特攻隊員の恋

特攻隊員上原良司、22歳は
こんな言葉を残して特攻機に乗った。

  愛する恋人に死なれたとき
  自分も一緒に精神的には死んでおりました。
  天国において彼女と会えると思うと
  死は天国へ行く途中でしかありませんから
  なんでもありません。

好きだとも言えずに死に別れた初恋の人の
面影を追って
上原良司が沖縄のアメリカ軍機動部隊に
空から突入したのは
終戦間際の初夏のことだった。

今日は初恋の日


ミカドの恋

17歳の二条天皇が恋をしたのは
叔母にあたる藤原多子(ふじわらのまさるこ)だった。

多子の君は二条天皇の叔父にあたる近衛天皇の皇后だった人で
四つほど年上だったが
美女の誉れ高く、絵と書に秀で琴と琵琶の名手でもあったという。

とはいえ、叔母にあたる人と、
しかも皇后の地位にあった人と結婚なんでとんでもない。
まわりは猛反対したけれど
いまは未亡人なんだからいいじゃないか、とばかり
17歳の若さは無理矢理望みを遂げてしまう。

それは日本史にも残る事件になった。

今日は初恋の日


啄木の初恋

  砂山の 砂に腹這い
  初恋の 痛みを遠く 思いいずる日

石川啄木の初恋の歌は
何人もの作曲家が曲をつけている。
なかでも越谷達之助(こしたにたつのすけ)の切ないメロディは人気を博し
日本の代表的な歌曲になった。

ところで、
石川啄木の初恋は13歳。
その相手は啄木にとって高嶺の花だった節子。
だが、啄木は6年にわたる初恋を実らせ
節子と結婚している。

詩人でも詩人でなくても
人に言えない恋のひとつくらいあってもいい。
この歌を聴きながらそんなことを思う。

今日は初恋の日。


泉鏡花と年上の女

早くに母を亡くしたせいか
泉鏡花のあこがれはいつも年上の女(ひと)だった。

母のような姉のような女性、
やさしく美しく、妖艶ではかなげで
それなのに、いざというときは強い。

そんな女性はいるはずがないと誰もが思う。
けれど、鏡花の心と鏡花の書く小説のなかには
確かに存在していた。

鏡花の初恋の人は湯浅しげという
やはり年上の人だった。
その人をモデルにした小説を読むと
生身ではない美しい女がふわりと浮かび出る。

今日は初恋の日


八百屋お七

恋のために火付けをして
火あぶりになった八百屋お七と
その恋のお相手の吉三郎がはじめて会話を交わします。

 「私は十六になります。」
  「私も十六です。」

井原西鶴描く、もどかしく切なく美しい
十六歳の初恋のシーンです。


スサノオ

スサノオのオロチ退治は
英雄伝でもあるけれど、恋の話でもあると思う。

さんざん悪さをして高天原を追われたスサノオが、
突然心を入れかえて人々のためにオロチ退治をするというよりは
好きになったクシナダヒメを助けるためと考えた方が
矛盾がないからだ。

スサノオはオロチを退治した後で
クシナダヒメと結婚し、こんな歌を詠んだ。

  八雲立つ  出雲八重垣(いずもやえかき)  妻籠(つまご)みに
  八重垣つくる その八重垣を

この三十一文字の歌が
日本の歌のはじまりとなり
その後(のち)、恋人たちは歌を交わし合って思いを伝えた。
スサノオは、いつも間にか歌と恋の神さまになっていた。

スサノオを祭る島根県の八重垣神社では
縁結びの赤い糸を買うことができる。

今日は初恋の日。

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ベベンコビッチオーケストラ無料ライブ

五島人による五島のためのバンド
ベベンコビッチオーケストラの単独ライブです。

とき:11月2日19時から
ところ:表参道HOLOTにて

詳細はベベンコビッチのHPまたはブログをご覧ください
ブログ:http://blog.goo.ne.jp/bebencobicci
HP:http://www.bebencobicci.jp/

なお、ベベンコビッチオーケストラは
ライブの翌3日には「ナイスミドル音楽祭全国大会」に出演します。

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渋谷のあらかぶ

「あらかぶ」ですが渋谷の飲み屋の名前です。
しかもノドグロはあったけどアラカブはなかったぞ。
飲み代は安かった。
おでんはうまくなかった。
でも午前4時までやっている。
少なくとも便利な店ではあった(玉子)

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Twitter バグ

坂本和加さんは目撃したようですが私は見逃しました。
Twitter を騒がせていたバグ、もうyoutubeにアップされている…

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厚焼玉子 10年08月08日放送



涼味 そうめん

暑い日の「素麺」という言葉の涼しさ。
あの白く冷たい麺に生姜のきいたつけ汁を出されたら
どんなに食欲のない日も思わず箸を取る。

日本の夏に素麺を考えた人はえらい。
でもいったい誰が?

素麺は奈良時代に中国から伝来したお菓子が起源という説がある。
けれども、9世紀になると
早くも岡山あたりで「麦切り」が作られ
宮中に献上されていたという記録が残っている。
この「麦切り」が素麺の、いわばご先祖さまらしい。

おいしい素麺で名高い岡山県鴨方町は、
いまでもキレイな水に蛍が飛び、空気はカラッと澄みわたっている。
この土地でこだわりの手延べ素麺をつくりつづけてきた
おくしま家(や)の奥島信行さんは、
2006年、小さくても人に役立つ発明や提案をした人がもらえる
東久邇宮記念賞を受賞した。



涼味 かき氷

夏はやっぱりかき氷。
ぶんぶんと音を立てて氷をまわしながら削る
あの機械の音でさえ暑いときはうれしいけれど
江戸時代の随筆家鈴木牧之(ぼくし)の北越雪譜には
もっと涼しいかき氷が出てきます。

夏、鳥の声が足元から聞こえるほどの山道を歩いて
汗だくになった鈴木牧之は
やっと腰をおろした茶店に天然の氷を見つけます。

山陰の谷から取ってきた氷を包丁でさらさらと削ったかき氷を
一杯めは、茶店のおじいさんがすすめるままにきな粉をかけて。
二杯めはきな粉をことわって
荷物のなかから砂糖を出してふりかけて食べた。

歯も浮くほどの冷たさに思わず暑さを忘れた、と
北越雪譜に書かれているかき氷、
天然の氷をさらさら削ったかき氷、
いっぺん食べてみたいです。



涼味 辛味大根

大根の辛味はイソチオシアネートという成分によるらしいが
それを通常の4倍も持つ大根がある。
親田辛味大根(おやだからみだいこん)という名の幻の大根だ。

親田辛味大根は、長野県下條村の特産品で
地元で「あまからぴん」と呼ばれる。
最初にほんのり甘く、次に強烈な辛さがやってくるからだ。

この「あまからぴん」を代々伝えてきたのは
下條村の佐々木圭さんの家で
江戸時代には尾張の殿さまに献上した記録も残っている。
危うく滅亡しかけたこともあったけれど
村の人たちの協力によって復活し
いまでは村全体の特産品になった。

信州長野といえば蕎麦どころだが
親田辛味大根は冷たい蕎麦との相性が抜群にいい。

暑い日に、ピリリと刺激的なおろし蕎麦。
佐々木さん、下條村の皆さん、ありがとう。



涼味 ラムネ

夏の風物詩といえば昔はラムネだった。
夏休みに連れて行ってもらった映画館のラムネ、
海の家のラムネ、
お祭りの、神社の夜店で売っていたラムネ。

あのカラコロ音を立てるビー玉入りのラムネの瓶は
誰がつくったのだろう。

ラムネ瓶はもともとイギリスで発明されたものだが
スクラップのガラスの中からそれを見つけた徳永玉吉が
見よう見まねで4年がかりで再現。
明治25年にやっと国産第一号のラムネ瓶が生まれることになった。

イギリスではもうラムネ瓶は残っていないけれど
徳永玉吉のおかげで
日本の夏は、いまでもラムネのビー玉が涼しい音を立てる。



涼味 ところてん


 清滝の水汲みよせて ところてん

芭蕉の夏の俳句は涼しい。

清滝は京都の嵯峨野の奥のもっと奥にある水の里で
清滝川に沿った渓谷には夏は蛍が飛び、カジカも鳴く。
谷の風は涼しく
昔から涼を求める人々が訪れる土地でもあった。

清滝の茶店で、
川の水を汲んで冷やしたところてんを
芭蕉は食べたに違いない。

ところてんの味を決めるのは
テングサとおいしい水。


 清滝の水汲みよせて ところてん

そんなところてんを食べてみたい。



涼味 かき氷の2

「けずった氷に甘いシロップをかけて
金(かね)のお椀に盛りつけたものは上品で美しい」と書いたのは清少納言。
平安時代のかき氷のようすがうかがえる。

その氷は冬の寒いさなかに切り出して
氷室と呼ばれる天然の冷蔵庫に保存しておいたもの。
身分のある人しか口にできない夏の贅沢品だったし
それ以前に神さまにお供えするものでもあった。

そのころ、都をとりまく北の山々には
計6カ所の氷室があって、
山ときくと遠そうだけれど
いちばん奥の氷室でも御所まで2時間ほどの距離。
しかも氷室から御所までは
重い氷を運ぶにはもってこいの下り坂。

ギラギラ暑い太陽に照らされて
溶けていく氷をなんとか無事に運ぶための知恵が
氷室の場所にもうかがえる。

むかし氷室があった土地には氷室、御室(おむろ)という町名が残り
氷室山や氷室池、氷室神社もある。

削った氷に甘いシロップ
冷たさをそのまま伝える金の器…
1000年の昔のかき氷は尊い。



涼味 冷やし中華

冷やし中華の発祥の地は仙台であるらしい。

昭和12年、中華料理店の人たちが集まって
観光客があつまる七夕祭りの新メニューを考えたとき
ざる蕎麦からヒントを得てつくりだしたのが冷やし中華だといわれる。

この開発の中心になった人物は
仙台龍亭(りゅうてい)の初代店主、四倉義雄さん。

当時の冷やし中華の具は
茹でたキャベツ、塩もみキュウリ、ニンジン、トマトにチャーシュー。
お値段の25銭はラーメン10銭に較べると高かったけれど
ハイカラな味としてもてはやされた。

そういえば、仙台の七夕祭りは今日が最終日。
冷やし中華の売れ行きはいかがでしょうか。



涼味 吉野葛

葛切り、葛餅、葛まんじゅう
和菓子の世界では夏の涼しさを葛で演出する。

そのなめらかな食感、透明感で
葛のなかでも白い宝石と称えられる貴重な吉野葛は
冬のいちばん寒い時期に生産のピークを迎える。

手がちぎれそうな冷たい地下水に晒してはまた晒して
精製した純白の澱粉を
身を切られるほどの寒風に干しあげる。

空気も水も冷たいほどいい。
冬は冷え込むほどいい。
人には厳しすぎる冬の寒さが、やがて夏の涼しさになる。

吉野葛の元祖、森野吉野葛本舗の19代当主
森野藤助さんのご先祖さまは南朝の遺臣で
その家は南朝破れてより吉野葛をつくりつづけているそうだ。



涼味 カレーライス

カレーライスは夏の味。
汗を拭き、冷たい水を飲みながら食べた後は
少し涼しくなった気がする。

日本の家庭でつくるカレーライスは
明治時代にイギリスから伝わったシチューを
日本海軍がアレンジしたものからはじまっており
1908年に発行された海軍割烹術参考書という
いわば海軍のレシピ集には
牛肉、人参、玉葱、馬鈴薯を材料とするカレーも載っている。

明治時代のカレー、海軍のカレー
日本のカレーのルーツはどんな味だろう。

気になる「海軍割烹術参考書」は
国文学者の前田雅之さんと写真家の猪本典子(いのもとのりこ)さんによって
3年前の夏、復刻場が出版された。

この本を買う人は
やはりカレー好きが多いらしい。



涼味 ヴィシソワーズ

夏の冷たいスープの代表、ヴィシソワーズ。
じゃがいもとネギと牛乳からつくるこのスープを考え出したのは
ニューヨークのホテル、ザ・リッツ・カールトンのシェフ
ルイ・ディア(Louis Diat)だった。

あたたかいスープを飲みたくなかった夏の日
お母さんは少年だったディアのポタージュに
冷たい牛乳を入れてくれた。
そんな思い出が、ヴィシソワーズには込められている。

ヴィシソワーズが
ザ・リッツ・カールトンのメニューに載ったのは1917年。
子供にスープを食べさせたい母の気持ちが
ホテルの洗練されたメニューになったのは
冷蔵庫の普及のたまものでもあった。

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厚焼玉子 10年06月05日放送


宮沢賢治の音

ぷりりぷりりと震えるウメバチソウ
サァン、ツァンと揺れる竜胆の花
しゃりんしゃりんとそよぐ鈴蘭。
そしてツリガネソウは
カンカンカン、カエコカンコカンと響き合う。

宮沢賢治はもの言わぬ植物から歌を聴いた。

どっどど どどうど、と風が鳴る。
ツンツンツンと月は明るい。

宮沢賢治にとって
この星の天と地の間にあるものはすべて生きているのだ。
生きているから歌を持っているのだ。

ルルルルル、とハチスズメが飛ぶ。
ギュッギュッ、ギッギッと蛙が鳴く。

私たちもこの星の歌に耳を澄ませよう。
一本の木に鳥が来て、一輪の花に虫が来る。
ひとしずくの水にだって無数の微生物が棲んでいる。

小さな命の歌と歌が
美しく響き合う地球であるように。


火の鳥から野菜へ

野口種苗研究所の野口勳さんは野菜の種と苗を売っている。
その種は固定種と呼ばれるもので
親の種を取って撒くと親と同じ野菜が生えてくる。

種を撒いたら生えてくるのは当然のようだが
いまの野菜の多くはF1と呼ばれる種からできている。
F1は一代雑種で大量生産には便利だけれど
その種から同じ野菜はできない。

野口勳さんは大学の頃から手塚治虫の大ファンで
念願の虫プロに就職して「火の鳥」の初代編集者になった。
手塚治虫の生涯のテーマは
「生命の尊厳と地球環境の持続」

これに感銘を受けた野口さんは家業の種苗店を継いだとき
日本の伝統的な固定種を扱うことに決めたのだ。

種を撒いたら親と同じ野菜が生えてくる。
こんな当たり前のことを守っていくのも
地球に生まれた生命の尊厳と地球環境の持続だと思う。


海は森を恋いながら 熊谷龍子

 森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく

この美しい言葉は宮城県の歌人熊谷龍子さんが詠んだ歌。
熊谷さんは森のなかの家に住み
山から海を考えたことはあったけれど
海から山を見たことはなかった。

誘われて海へ行った。
海の水で洗っただけのまっ白な牡蠣を食べた。
その牡蠣は森の恵みだと教えられた。
びっくりした。

森の落ち葉が腐葉土になり
森に降った雨が腐葉土にしみ込んで
その養分を川に運ぶ。
その川はやがて海につながっていくのだ。

海と森には深い絆がある。
太古からの地球の営みのなかで
海と森はつながっている。

森は海を、海は森を恋い慕っている。
この言葉を忘れないようにしよう。


森は海の恋人 畠山重篤

宮城県気仙沼の海が茶色になったのは
昭和40年代から50年年代にかけてのことだった。

その原因は多過ぎるほどあった。
工場排水、一般家庭からの排水、農薬に除草剤、
手入れのされない針葉樹林からの赤土…

気仙沼で牡蠣の養殖をしていた畠山重篤さんは
まっ白なはずの牡蠣の身が赤くなったことに驚き
ヨーロッパまで視察に行って勉強をした。

いままでの海を取り戻すには何をすればいいのだろう。
海ばかり見ていたのではダメなんだ。

海には植物プランクトンの森がある。
海の森を育てるのは山の森だ。
山の森の養分を川が運んで海の森を育てることがわかった。

いま、畠山さんは「森は海の恋人」というNPO法人の代表として
海に生きる人たちの手で山の森を育てる活動をしている。

木を植え、森を育て、里山をつくり
気仙沼の海は少しづつキレイになっている。

「森は海の恋人」という言葉は歌人熊谷龍子さんの歌からもらった。
  森は海を 海は森を恋いながら 悠久よりの愛紡ぎゆく
美しい言葉に負けない美しい海を…


照葉樹林 宮脇昭

マレーシアの、
再生不可能と言われた熱帯雨林をよみがえらせ
万里の長城の壊滅した森も復活させた。
2006年には地球環境に貢献したことが認められ
ブループラネット賞を受賞した宮脇昭さん。

宮脇さんが木を植えるときは
その土地にもともと生えていた木をさがして植える。
しかし、たとえばいまの日本でその土地本来の森は
0.06%しか残っていない。

困ったとき、宮脇さんは鎮守の森の木を調べる。
鎮守の森は神さまの領域なので
昔から木を伐られることがあまりないからだ。

宮脇さんの森は人の管理を必要としない。
地球の太古の森がそうだったように
自然にまかせておけば元気に生きている。

人は自然をもっと信じて生きなければ。


10年めの三宅島 ジャック・モイヤー

かつて200種類を超える野鳥が棲み
バードアイランドと呼ばれた三宅島。

噴火直後は小鳥の声も聞こえなくなったといわれたけれど
10年たったいまでは賑やかなさえずりが聴こえる。
海では魚と伊勢エビが増えている。

三宅島に住んでいた世界環境保護スペシャリスト
ジャック・モイヤー博士は
島に帰る日が来る前に亡くなってしまったけれど
博士が教えてくれたことは、いまも三宅島に生きています。


宇宙ゴミ ニコラス・ジョンソン

5,500トンのゴミが地球の周囲をまわっている。
その内容は人工衛星やロケットの残骸から
宇宙飛行士が落とした手袋や工具まで。

これらをまとめてスペース・デプリと呼ぶ。
日本語で言うなら宇宙ゴミ。

宇宙ゴミは活動中の人工衛星と衝突することがある。
たとえば1996年のフランスの軍事衛星は
10年前のロケットの破片と衝突して損傷を受けた。
直径10センチのゴミで宇宙船ひとつが破壊されてしまうというから
宇宙のゴミは危険物そのものなのだ。

アメリカの航空宇宙局NASAには宇宙ゴミ問題の主任科学者がいる。
お名前はニコラス・ジョンソン。
ジョンソン氏は宇宙ゴミ国際調整会議の米国代表団の団長をつとめ、
国際宇宙科学学会の宇宙ゴミ小委員会の共同議長、
さらに米国航空宇宙学会の宇宙ゴミ標準化委員会の委員も兼ねている。
また1995年には国際宇宙ステーションの
宇宙ゴミ安全管理委員会の委員でもあった。

地球は宇宙へつながっている。
地球環境はもう地球だけの問題ではなくなってしまったようだ。

頭の痛い宇宙ゴミ問題に取り組むジョンソン氏を
心から応援したい。

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厚焼玉子 10年05月29日放送


5月生まれの詩人 野口雨情

野口雨情が残した2000余りの詩のなかで
北海道から九州まで、全国の風景や風物をうたった
いわゆるご当地ソングといわれるものは300を超えている。

ご当地ソングをつくるのはなかなかむづかしい。
誰がきいてもわかりやすく、歌いやすく
そして、その歌を聴いた人が
その土地の代表的な風景を思い描ければ成功といえる。

野口雨情の上州小唄は
五月の赤城山が眼に浮かぶ。

  赤城山から風が吹き出して 風で蝶々が飛ばされる

そういえば、今日は野口雨情の生まれた日でした。


5月生まれの作家 内田百閒

1931年5月29日
開港間もない羽田空港から
小さなプロペラの複葉機が飛び立った。

その飛行機の名前は「青年日本号」
地図と羅針盤だけをたよりにシベリアからウラル山脈を越え
ヨーロッパを目指した法政大学航空研究会の飛行機だった。
操縦士はもちろん学生である。

この飛行機はドイツ、イギリス、フランスなどを
親善訪問しながら
無事に目的地であるローマに到着。
世紀の快挙として日本中が沸き立つニュースになった。

ところで、この飛行計画を立案、実行したのは
当時法政大学の教授で航空研究会の航空部長でもあった
内田百閒先生。
「青年日本号」が出発した5月29日は
百閒先生の誕生日でもありました。


5月生まれの政治家 ケネディ

世界一贅沢なバースデーソングを歌ってもらった人は
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領だろう。

1962年、マジソンスクウェアガーデンで開かれた
大統領45歳の祝賀会で
ハッピーバースデーを歌ったのは、マリリン・モンロー。
モンローはこの短い曲を歌うために映画の撮影をすっぽかし
後々訴訟問題に発展したと言われている。

ハッピーバースデー、ミスタープレジデント

マリリン・モンローのささやきのような
バースデーソングは1万7千人の観客を魅了し
拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

今日はジョン・F・ケネディの生まれた日。


5月生まれの国王 チャールズ二世

イギリスの国王チャールズ二世は
リチャード三世ほどの悪役ではないし
ヘンリー八世ほどわがままでもなかった。
ウイリアム一世ほど英雄でもないが
エドワード六世のような子供でもなかった。

チャールズ二世の評価は人によって違うかもしれないが
誰もが共通して語ることがある。
それは、女性に弱いということだ。

チャールズ二世は国王になる以前
フランスやオランダで亡命生活を送っていたが
行く先々で恋人を見つけては子供をつくった。
イギリスに戻り、国王になって結婚してからも
愛人はたくさんいた。
チャールズ二世は、愛人との間に生まれた子供を
14人まで認知しているが
王妃との間にはひとりも子供ができず
国王の血は絶えたかに思われたが…

現在、イギリスのウイリアム王子とンリー王子は
チャールズ二世の血を引いている。
愛人の子供たちによってチャールズ二世の血は
イギリスの貴族に受け継がれ
ダイアナ妃もその子孫のひとりだったからだ。

チャールズ二世は1630年の今日生まれた。


5月生まれの発明家 ジョン・ウォーカー

「もしもこの世にマッチが発明されなかったら
私たちはいまでも火を起こすのに苦労しているかもしれない。

人類が火を使いはじめたのは100万年以上も昔だが
マッチの発明からは200年足らずしかたっていない。

マッチの発明者はジョン・ウォーカー。
イギリスの科学者であり発明家でもあった。
彼は1826年にマッチを発明し翌年に販売を開始した。

火種を絶やさないように苦労していた生活から
すぐに火のつく暮らしになったありがたさを
私たちは忘れてしまったかもしれないけれど
近ごろでは
マッチは環境にやさしいということが
見直されはじめている。

今日はマッチの発明者ジョン・ウォーカーが生まれた日。


5月生まれのコメディアン ボブ・ホープ

アメリカのコメディアン、ボブ・ホープは
生きている間に二度も自分の死亡記事を読んでいる。
最初は1989年、AP通信社による誤報で
このときはアメリカ合衆国下院で追悼演説まで行われた。

二度めのときは
あらかじめ準備しておいた有名人の死亡記事が
間違ってケーブルテレビのウェブサイトに掲載された。

今日はボブ・ホープが生まれた日
ボブ・ホープは
2003年、100歳の誕生日を祝った2ヶ月後に亡くなっている。


5月生まれの歌姫 美空ひばり

昭和25年5月
小学校を卒業したばかりの美空ひばりは
日系二世米国人部隊に招かれ
人気ボードビリアン川田晴久とともにハワイ公演に出発した。

この頃のひばりと川田晴久は、まるで親子のようだった。
デビューしてもなかなか売れないひばりを
川田は自分の一座に加え、スターへの道を着々と準備していたし
そんな川田をひばりは本当の父のように慕っていた。

そのハワイでの出来事だった。
表の通りで起こった自動車事故をのぞき見るために
窓から顔を出そうとしたひばりを
川田はたしなめた。

 人気ものがうっかり顔を出すと余計騒ぎになる

川田は美空ひばりがスターになる道を準備すると同時に
スターとしての教育も忘れてはいなかったのだ。

美空ひばりがブレイクしたのは
帰国後第一作めの映画「東京キッド」から。
この映画で川田はひばりのためにギターを弾いている。

今日は美空ひばりが生まれた日
生きていてくれたら、もう73 歳になっていた。

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